![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/84603951/rectangle_large_type_2_e5654d192a1027fbaf536bc912318014.jpeg?width=1200)
今道友信わが哲学を語る ― 今、私達は何をなすべきか (今道 友信)
今道友信氏のお話は、10数年前、直接伺う機会がありましたが、著作も以前「エコエティカ」を読んだことがあります。とても興味深い内容でした。
さて、本書は、鎌倉高徳院で開講されていた今道氏の講義の書き起こしです。
第一章は「芸術と宗教をめぐって」、第二章は「東西の哲学を読みなおす」。この章の「自然哲学」を論じた講において、今道氏は、昼と夜に関して面白い指摘をしています。
(p144より引用) 昼と夜は同じ場所で起こりますが、同じ現象ではありません。・・・
昼の知覚はどのようになっているのか。顔の前方に「パースペクティヴ(perspective)」が広がります。・・・昼は背後を知らない世界です。昼は前方に向かって進んで行く、仕事をする世界だと言えます。
一方、夜の世界はどのようになっているのか。電気の明りがない真っ暗な夜では、聴覚を中心とした世界になります。自分を中心として円がある。聴覚や嗅覚や触覚の及ぶ円があります。そのため夜の世界では、前方も後方も両方感じられます。・・・自分を中心とした同心円の世界なのです。
昼は、明るい日のもとで対象物を精緻に計ることができます。この表出化された「量の認識」に基づく「自然科学」は「昼」の学問です。
他方、夜は「質の認識」に内面化され、「自然哲学」のひとつのテーマとなると説いています。
もうひとつ、この章で教えられたのは、孔子の教えの幅広さでした。
(p152より引用) 『論語』は、道徳を含めた三つの大きな部門からなっています。第一が「論理学」、第二が「美学」つまり「芸術論」、そして第三が、「道徳」と「政治学」となっています。
論語は封建思想の礎としての「儒学」ではなく、より広い哲学思想だとの指摘です。
たとえば、「論理学」としての側面。
論語の中の一節に「必ずや名を正さんか」との孔子の言葉かあります。この「名」が孔子の「論理学」の基本コンセプトです。「名」とはものの「定義」を意味します。定義がはっきりしなければ「言葉」は通じません。論理的な思考も対話も成り立たないのです。
本書の最終章、第三章のタイトルは「21世紀の倫理学」。身近で具体的な題材を採り上げて「倫理」を語ります。
たとえば、平成11年に制定された「国家公務員倫理法」をもとに「倫理と法との関係」について語ったくだりです。
(p245より引用) 倫理を法で取り締まる国があればお目にかかりたい、と思っていたのですが、実は日本がそうでした。これは非常に大きな間違いです。倫理を法で取り締まるのではなく、法を倫理で規制しなければなりません。議会の多数決により決めることができるのは、法律であって倫理ではありません。服務規程と倫理は絶対に違うのです。服務規程が整っていても、倫理的反省ができているとは言えません。・・・倫理学が「善」の理念を忘れた時、それはただの服務規程や行動規則に堕するのです。
現代は「人権」が認められる社会です。その基本は「人命の尊重」です。
しかしながら、現実的には不慮の死が世界中のいたるところで見られます。
(p262より引用) こうした、餓死、事故死、戦死、公害死は、倫理の四大社会倫理、四大徳目である、「正義」「中庸」「勇気」「節制」を知っていないがために起こっているのです。・・・以前、哲学とは「魂の世話」であり、そのために必要な基本的知識があるとお話ししましたが、その知識とはこの四大社会倫理のことなのです。
今道氏は、この四大倫理徳目の中で、とりわけ「勇気」の大事さを訴えています。
「自分が正しいと信じたことをためらわずに主張する」こと、戦中を生きた今道氏は、この「勇気」の欠如による不幸を身に沁みて感じているのです。