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ゴジラと日の丸―片山杜秀の「ヤブを睨む」コラム大全 (片山 杜秀)

平田昭彦、川谷拓三

 文字が小さくて、それでいてボリュームのあるコラム集です。
 収録されているコラムは全部で400本を越えるのですが、その中から順不同に私の興味を惹いたものをご紹介します。

 まずは、「ゴジラ第1作(昭和29年(1954年))」に出演した俳優平田昭彦さんを取り上げたもの。

(p47より引用) 平田の本当の魅力は、見てくれの真面目さの裏にうごめく、不真面目でニヒルな〈はぐれ者精神〉にあったと、ぼくは信じている。・・・
 その意味で彼の代表作は、やはり54年の『ゴジラ』だ。何しろ、そこで平田の演じる芹沢博士は、戦争に傷つき、社会に背を向け、ゴジラと心中させられるはぐれ者、まさに平田の分身なのだから。

 実は私、子どものころから怪獣映画は大好きで、ゴジラシリーズはすべて見ています。この「ゴジラ」第1作もDVDで見ましたが、世相を反映した重々しい画面で、強烈なインパクトのある作品でした。その中でも芹沢博士は特異のキャラクターで、まさに平田氏のはまり役という感じです。

 もうひとつ、1970年代一世を風靡した「ピラニア軍団」
 室田日出男さん・志賀勝さん・川谷拓三さんといった個性派脇役俳優の活躍に、主役を食う下克上の痛快さを見た短文。

(p140より引用) そんな痛快なピラニア的時代も、間もなく終わった。なぜなら、ピラニアが食い荒らすべきビッグなスター、本物の権威といったものが、80年代以降、政治、芸術、芸能等々、どの分野でも見つからなくなったからである。
 ピラニアたちが活躍しすぎたのか、とにかく、脇役が主役を、低級なものが高級なものを、もう浸蝕しきってしまったのだ。結果、お互いの境界線は、ほとんど消えた。すべてはドングリの背くらべになった。

 確かに、三船敏郎さん・勝新太郎さんといった豪放磊落、いかにも大物という「大スター」はいなくなりましたね。
 現在の映画界では、強いて言えば渡辺謙さん・役所広司さん・佐藤浩市さんあたりがそれにあたるのかもしれませんが、ちょっと持っている雰囲気が違う気がします。とても真っ当な想定内の方なので、良しにつけ悪しきにつけ「伝説」にまでは昇華しそうにありません。

時代観・社会観・人間観

 採録されている400を超えるコラムの中から、さらに、私の興味を惹いたコメントの紹介を続けます。

 まずご紹介するのは、「作曲家古関裕而氏による戦時歌謡」をテーマにした小文です。

(p93より引用) 試みに、古関が敗戦間際に作った『嗚呼神風特別攻撃隊』でも聴きましょう。この歌は実に悲痛です。捨て身の体当たり攻撃をやるまでに追い詰められた日本人の絶望感が、この歌を聴くことでたちまち五十年の垣根を越え、現在生きる者の胸にひしひしと迫るのです。・・・
 ところが世の中には、『嗚呼神風・・・』とか言うと単に悪しき時代のシンボル、平和の敵と考え、そういう曲を歌うのは、軍国主義的で言語道断と決めつける人が多いのですね。そんな輩は結局、日本人が平和を考えるための前提とすべき戦争の記憶、戦時の情念の記憶にフタをしようとするのだから、実は彼らこそが真の平和の敵なのです。

 これは、感情的な「短絡思考」を諌める一理ある指摘だと思います。

 次は、「オリンピック」の本質をシニカルに指摘したコラム。

(p185より引用) そもそもスポーツ一般には、人間に根っこから備わる野蛮さや暴力性を、ルールというきれいごとの鋳型にはめて、制度化している面がある。
 その意味で、あらゆるスポーツをテンコ盛りにしたオリンピックとは、オブラートにくるまれているが、実は立派な暴力の祭典でもあるのだ。
 にもかかわらず、そういうオリンピックなるものを、世間は、平和とか愛とか感動とか、妙な美辞麗句で粉飾しすぎるのではないか?

 「暴力の祭典」とまでの形容はどうかとは思いますが、「粉飾」されているという感覚は多かれ少なかれ感じられるところですね。ある種「偽善的」という感覚に近いものがあります。

 著者は、さらに、こう続けます。

(p185より引用) それでも、あくまでオリンピックを非暴力的なものとしてイメージしたいなら、こうしたらいかが?
 暴力を内に抱えたスポーツ一般とは一線を画する、非スポーツ的なもの-たとえば禅やヨガを、競技としてオリンピックに加え、実際にオリンピックの性格を変えていく。

 思わずニヤッとするような提案ですね。

 さて、最後のひとつは、「IT革命とちはやぶるもの」とタイトルされたコラムから、超高速化時代における「社会の歪」の指摘です。

(p431より引用) 人の生を巡る、幾らでも加速できる領域とそれができない領域とのギャップが、際限なく大きくなる。そしてその中でバランスを崩した人々の精神が、どんどん壊れてゆく。それが今なのだと思う。

 速ければいいわけではありません。そのスピードについていくことができない人、ついていく必要のない人がいても構わないはずです。
 そういう人々を最後救い上げるネットが、今、なくなりつつあります。ITではカバーできない「人と人とのかかわり」の次元です。

伝統芸術

 著者の片山杜秀氏は、もともとは政治思想史の研究者ですが、音楽・映画・演劇といったジャンルにも造詣が深くその方面での評論活動も活発です。

 そういう背景もあり、本書では、「伝統芸術」の世界が、しばしばコラムの題材として取り上げられています。
 そのうちのひとつ、「古典芸能」という一種聖域に関しての著者の指摘です。

(p119より引用) 実は能とは、武士の厳しさと、昔の村祭りとかの気楽さとがゴチャマゼのまま残ってきた、とてもいびつな芸能なんです。・・・
 これと同じことは、他の古典芸能にも言えます。長い歳月をかけると洗練されるという話は、もっともらしい嘘です。実際は歳月を経れば経るほど、いろんな出来事が覆いかぶさるから、いびつになってゆくのです。そして、いびつなものほど色々に受け取れるから見飽きません。
 古典芸能の真の味わいは、いびつさにあり!

 確かに、「芸能」は、生まれたばかりの方が純粋だったというのは首肯できます。その姿を芯にして、様々な時代や心情の粘土が塗り重ねられ、塑像のように形作られていくものなのかもしれません。

 続いては、狂言師野村萬斎さんの芸風を切り口にした「個性を育て大事にする教育」についてのコメント。

(p253より引用) 「真似しちゃいけません、おのれの個性は自力で育てましょう」でしつけられた子供たちは、周囲から、ユニークな人、学ぶ(真似ぶ)べき人を見つけ、いろいろ真似し、そこから自らの個性をはぐくむことを妨げられたあげく、結果として、流行とか時代の空気を追うのが精いっぱいの無個性人間にばかり、育ってるんじゃないか?

 歌舞伎・能・落語等々、伝統芸能の一流は皆、名人先達の芸を「真似」ることを修行としました。それを極めることにより、先達とは異なる自らの個性・自分らしさが磨かれ出るのでしょう。
 自主性を重んじるという掛け声だけで「個性的な人間」が育つはずもありません。「真似る」ことは個性発揮のための必要なファーストステップだとの主張です。

 とはいえ、生け花の草月流創始者勅使河原蒼風を採り上げたコラムでは、著者はこう声高に叫んでいます。蒼風は狭義の生け花に対して、生ける客体を広げていきました。

(p512より引用) そんな蒼風のやり方はあまりに近代日本の姿にダブる。だってこの国は外国の科学技術や制度や思想を何でも頂いては少しアレンジするだけで、ずっとやってきたのだから。日本とは実は生け花国家であったのか!・・・
 ああ、日本は再び生けるべき何かを発見できるだろうか?頼むよ、誰か真似させておくれよ!

 さて、本書、ともかく文字が小さくて分厚い。それだけに百花繚乱、玉石混交・・・、コラムの主張内容も首肯できるものばかりではありません。
 が、著者独特の視点はとても刺激的です。いろいろな意味で「なるほど」と興味深く感じられる評論が目白押しのなかなか楽しい本です。



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