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加藤周一のこころを継ぐために (井上 ひさし 他)

 本書は、2008年12月に亡くなった加藤周一氏を悼んで開催された講演会「加藤周一の志をうけついで」での各氏のお話を中心に追加加筆したものです。

 登場するのは「九条の会」の面々です。
 その中から加藤氏の「人となり」を思い起こさせるくだりをいくつかご紹介します。

 加藤氏は病身であったこともあり徴兵を受けませんでした。しかし、周りの多くの友人たちは戦地に赴き帰らぬ人となりました。ここに、加藤氏の根源的な戦争反対の理由があります。井上ひさし氏は、こう紹介しています。

(p7より引用) なんの理由もなく、私の友人は戦争のために死んでしまった。
 私の友達を殺す理由、殺しを正当化するような理由をそう簡単に見つけることはできない。・・・
 ・・・自分の友だちを殺した理由を正当化するような戦争の理由を、加藤さんはまったく見つけることができない、と言うのですね。
 だから、戦争反対ということになるのです。

 「『命』と『戦争』とどちらが大切ですか」という明瞭かつ本質的な問いに対する加藤氏の生身の答えが示されています。

 もうひとつ、憲法学者奥平康弘氏が語る加藤氏の思い出と決意です。

 このところ、物事を単純な論理(基準?)で白黒をつけるという「わかりやすさの誘惑」があちらこちらで散見されています。この手の議論のやり方は、深く考えるという姿を野暮ったいものと言下に否定し、一見歯切れが良くスマートに見えます。
 こういった昨今の「自ら考えない風潮」「周りの空気に流される姿勢」に、加藤氏は大きな危惧をいだいていました。

(p30より引用) 加藤さんは、物事の正統性が、わかりやすいほうへ持っていかれ、奪われてしまうことを最も恐れたのではないかと思う。

 しかしながら、加藤氏は、劇団民藝による東京裁判を扱った木下順二の「審判」という劇を鑑賞した際、わずかながら希望を抱きました。それは、「この難しい劇を観に来ている人々がこんなにもたくさんいる」という事実をもってでした。

(p31より引用) こんなむずかしいものを、それとしてとらえようとする。だから、日本の将来はまんざらじゃないよ-、と。そう思っておられた加藤さんに、本当に満足してもらえるよう、私たちはわかりやすさに流されるべきではない、と思います。

 最後の砦は、「ひとりひとりの人間」です。これが、最後の希望でもあります。

 さて、本書、50ページ程度のブックレットですが、なかなか面白い話が数多く見受けられました。

 たとえば、作家の澤地久枝氏の話の中での「地方の元気」についてのくだりです。 

(p38より引用) 東京は、そういう意味ではいちばん情報が乏しくて、現状からずれがちではないでしょうか。地方へ行くと本当に熱が高くて、こんなにも人と人とのネットワークが広がっているのかと、希望をもらって帰って来る。それはやはり、地方のマスメディアがちゃんと住民と向き合っているからではないでしょうか。

 在京メディアと地方メディアとを比較すると、確かに、地方メディアの方が面白い情報を発信していますね。また、何かに取り組んでいる人々の「平均的活性度」という点でも、地方の方により「熱さ」を感じますし、「ネットワークの緊密度」も強い気がします。
 「地方」というハンディを振り払おうとする意識のせいでしょうか。その点、平均値の肌感覚では「東京」は圧倒的に冷めた感じがします。
(ただ、このあたり「ネットでのコミュニケーション」が数段盛んになった今、メディア自体の位置づけも含め、かなり様変わりしているように思います。良くも悪くもですが。)

 最後にもうひとつ、なるほどと感じた日本女子大教授成田龍一氏「加藤周一の読み方」についての指摘です。

(p44より引用) 状況を見据えながら、状況に向かって発言する加藤の言葉には、原則的な立場と論理とが脈打っています。論理に忠実なあまり、原理的になるのではなく、また逆にその時々の状況にのみ流されることなく、事態を見据え把握しています。この姿勢を学ぶことが、いま加藤周一を読むことの意味であり、このことこそが必要だと思うのです。

 この「論理」と「状況」との双方を往還しながら「自らの立ち位置」を自立的に規定していくという方法は、ものごとに対峙した際、常に意識したい姿勢ですね。



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