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自己の連続性と「元」少年A【基礎教養部】[20250225]

今回の記事は前回のnote記事で扱った本、元少年A 『絶歌』を題材にジェイラボ基礎教養部の活動としてチームを作りその中で話し合った内容も踏まえて改めてアウトプットした内容です。(下記にチーム員のnote記事が揃い次第そちらも添付します)

はじめに

本書に関して私なりに深掘ってはみた。心理学からアプローチしている本や元少年Aのように人を加虐することによって快楽を感じるという方の独白書、あるいはもっと広く一般寄りの犯罪心理学書、それらを読むことでそれなりに収穫はあったと思う。しかし元少年Aに関して理解しようとした際に結局は本書に行き着く。参考はどこまで行っても参考でしかなくそこにどれだけもっともらしいことが書いてあってもそこがゴールではない。いや、「結局は本書に行き着く」というのも正確ではない。結局は「自分」に行き着くのだ。

自己の連続性と「元」少年A

自分自身を振り返ってみると、思想の変遷はあったものの(小学生時代も含めるのでその時に「思想」なんて言えるほど大層なものは持ってはいなかったが、ここでは「自分が持っている根本のある程度まとまった考え、思考」として定義してこの語を使う)まず思い当たることとして小学校低学年〜小学校中学年の頃に先生から「正義の味方」と呼ばれていたことを覚えている。これが高学年になると「屁理屈大魔王」になるのでえらい変わり様ではあるがこの「正義の味方」に私自身の思想の発端があると思っている。そもそもなぜ「正義の味方」と呼ばれていたかというと、例えば授業中にうるさくしている同級生がいると「静かに!」と注意したり、ガキ大将が理不尽なことをしていたらそこに異を唱えて取っ組み合いの喧嘩をしたり、そういった様子を見て先生は「正義の味方」と私を呼んでいた。ちなみに「正義の味方」と呼ぶくらいならその分通知表の評価も上げてもらいたかったものだが私の成績から考えると反映されていなかったと思う。正義の味方の道は険しいようだ。閑話休題、そして当の私がそれらの行動を「正義」だと思ってやっていたかと思い返すと確かにそうではあった。しかしそういった行動はいつしか鳴りを潜めていった。それはなぜか?それは子供ながらに「絶対的な正義」など存在しないことに段々気付いていったからだろう。もし私の行なっていたことが「絶対的な正義」なのであれば普通私のそういった行動に多くの賛同者が現れて然るべきであるがそういうこともなかったし、むしろ高学年になる頃には「そのガキ大将が悪いとしても小林君(私)も同じように暴力で対抗したら同じように悪になるんじゃないの?」等の指摘も受けるようになっていた。そういった中で自分の行いが「正義」ではなく「独善」だということに子供ながらに気付いていった。

では今の私がどうかというと今の私は「正しく生きたい」と思っている。それは「正義の存在」でありたいという意味ではない。そもそも「正義」というのは設定でしかない。「正義」というのは100人いれば100通りの「正義」がある。しかし「正義」という言葉はあまりにも簡単にそれを人々から忘れさせる。そうではなく私は「正しく生きたい」のである。そして「正しく生きたい」と思った時に我々にできることはあらゆる要素、材料を持ち寄って熟考した上で自分の中の「正しさ」の軸を作り、それを軸にして自分の人生を生きていくことだけである。小学生の頃の私も子供なりに自分の「正しさ」を持って物事に相対してはいたのだろう。その部分では小学生の頃と根っこの部分は変わっていないようだ。しかしその間にかなり色んな思想の変遷があったことも確かだ。「正しさ」よりも「楽しさ」を追い求めていた時期もあった。若気の至りとはいえその時の自分ははっきり言ってクズだった。

なぜこんな話をしているかと言うと、我々はどこまで自己の思想に連続性を保てるかという話をしたかったのである。「生きる」とは「変化すること」でもあると言える。10年前の自分、去年の自分、昨日の自分、1秒前の自分、どれも今の自分と全く同じ存在ではない。過去の自分からの意識の繋がりが「今の私」を規定している。もし「1秒前の私」と「今の私」の間で意識の繋がりが全て途切れたら「1秒前の私」と「今の私」を紐付けるものが意識上で無くなってしまう。そうなってしまうと「私」を「私」として意識付けていたはずのモノが一切消失してしまう。その1秒の間に全く別の人間になったと言っても差し支えないだろう。つまり自己を規定しているのが自己の連続性である限り「絶対の自分」というのは存在しないのである。むしろそういう意味では「過去の自分」を「意識の連続性の中の他人」と位置付ける見方もできる。そして自己の意識の連続性と自己の思想の連続性はイコールではない。実際私も「10年前の自分が今の自分と同一人物であるか?」と問われると別人レベルで思想は変わっていると感じる。しかし社会の共通認識として私(小林高之)は1秒後も明日も来年も10年後も私(小林高之)であり、社会の中では「意識の連続性の結果としての私(小林高之)」は存在できない。そしてこれが本書の著者である「元少年A」に繋がっていく。

「元少年A」、なぜ「元」なのか?それは彼自身がもう「連続殺人犯としての少年A」を過去の自分、もっと言うと「意識の連続性の中の他人」として認識していることの表れではないか?「他人を殺しておいて、過去の自分は今の自分ではない?そんなことが許されるわけないだろう!」それはその通りであるし私もそう思う。しかしそれは社会(もっと言うと人間が生物であるという原理上)というものが「過去の自分」を「意識の連続性の中の他人」として区別することができず、我々もそのルール(仕組み)の中でそう思う、感じるようにインプットされているという自覚を持つことはできるはずだ。

しかし「できる」ことと実際に「する」ことには大きな壁がある。そしてその壁は「正しさ」というレンガではできていないようだ。

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