他者理解について考える【基礎教養部】[20241125]
今回はジェイラボ基礎教養部の活動としてチームで「他者理解」というテーマを決め、それについて記事を書くことになった。他者理解の実践としてできればこの記事を読んでいただく方には今回の書評活動のチームメイトの下記の記事を読んでいただきたい。今回なぜ「他者理解」というテーマになったか見えてくるかもしれないし、見えてこないかもしれない。しかし他者を見にいかなければ「他者理解」というのはそもそもあり得ない。
それでは本論に入っていこうと思う。「他者理解」この言葉を聞いて自分の体験から思い出したのは小学生時代の話だ。「他人(ヒト)の気持ちを考えなさい!」そう言って叱られたことが何度かあった。小学生時代のあだ名は「屁理屈大魔王」だった私だが、特に目立った問題行動があったわけではなかった。大人しい子供ではなかったがどこにでもいるワンパク小学生という感じだった。そんなコバ少年は少なくとも半年に1回くらいの周期で「他人(ヒト)の気持ちを考えなさい!」と言われて怒られていた。この周期が多いのか少ないのかは分からないがいずれにしても定期的に小学校の先生からそう言われる少年だったわけだが、当の私はというと他人の気持ちを考えようとはしていた。しかし分からない場面が都度ありその結果、一般的(もしくは教育的)とされるような対応ができない場面が生じていたので先生から定期的に怒られるという現象が起きていたのだろう。補足をしておくが私は他人の気持ちが思いやれないとされる「サイコパス」と呼ばれるタイプの人間ではないし、繰り返しになるがそもそも他人の気持ちを考えていた。他人の気持ちを私は考えていたのだから当時の先生に「他人(ヒト)の気持ちを考えなさい!」とそっくりそのまま返してやりたいところだが、それならなぜそのようなことが起こっていたのだろうか。その理由は私の他者認識の方法に原因があったのだと自己分析する。これは20代になってから気付いたのだが私の他者の感情への認識は「目の前の泣いている子は多分悲しいから泣いているんだろう」というような共感からは入らない(これを「共感目的の他者認識」と呼ぶことにする)。そうではなくて私は自己のアナロジーから入る(というか入ってしまう)。つまり目の前に泣いている人がいてそれに対して私は「目の前の子の隣に置いてあるおもちゃが壊れている。僕もおもちゃが壊れたら悲しいな。だから目の前の子も悲しくて泣いているんだろうな」言語化するとこのようなプロセスで他者の感情を認識している。(これを「アナロジーによる他者認識」と呼ぶことにする)なので自分のアナロジーから引っ張ってこれない場面に遭遇すると一般的とされる行動から8割くらいの確率で外す。今となってはそれ相応の経験値がついてきたので過去の経験やその時の状況からほとんどアナロジーで引っ張ってこれるが、ごく稀にレアなケースに遭遇するとやはり8割くらいの確率で外すのは今も昔も変わっていない。補足しておくがこの「アナロジー(類推)」の範囲はかなり広いので例えば陣痛で痛そうにしている方がいて「俺は男だから陣痛の痛みなんて全く分からねぇな」というようなことにはならない。そこは「陣痛は自分の今まで経験した痛みでいうと〇〇に近いのかな。いやそれの2倍くらいは痛いかもしれない」というように応用を効かせて相手の痛みを汲み取りにいくことは可能である。むしろ「陣痛!とにかく痛いんだろうな!」と「共感目的の他者認識」で汲み取りにいくよりも自分事として捉えにいこうとしている点で汲み取りの精度は高い場面が多いはずである。しかし全く経験も関連も無いシチュエーションではアナロジーによる認識は無力なので小学校時代の私のように「他人(ヒト)の気持ちを考えなさい!」と大人から頭ごなしに叱られる場面が発生したのだろう。
また断っておくが「共感目的の他者認識」「アナロジーによる他者認識」と本記事では分類してみたものの、突き詰めるとどちらも自己というフィルターを通した上で他者を認識していることに変わりはなく、そこからは誰も逃げられない。もし逃げられる人がいるとすればもうその人は人間ではない。
そして私はこれからもこの認識の癖を背負いながら地道に他者理解をしにいくつもりである。他者理解にゴールなど無いのだというゴールを知りながら。