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サン=テグジュペリ (著), 浅岡 夢二 (訳)『星の王子さま』 【基礎教養部】[20241025]
建前と本音と身の丈の言葉
学生時代の言葉
私は今までどんな言葉を発してきただろうか。物心ついたころは思ったこと、感じたこと、思いついたことをそのまま発していたように思う。そこから小学校、中学校と年齢が上がるにつれてそこに思考というものが少しずつ挟まってきた。もちろん感情から言葉を発する場面が多かったが、成長するにつれてその割合は減っていった。高校生になる頃には感情そのものをぶつける場面はかなり少なくなっていった。基本的にはその場で思いついたことを発するのだが、重要なことだと思われることには基本的には思考を一旦挟んだ後言葉を発していたと記憶している。浪人、大学時代前半になると基本は高校時代と大きくは変わらなかったが、この頃から借り物の言葉を発する場面が多くなっていった。本で読んだ言葉、権威がある人の言葉、影響力のある人の言葉、そういった言葉をいつからか借りてきて発する場面が出てきていた。その後、人生に迷っていた時期は言葉そのものを発することが億劫になっていた。人に何かを伝えること自体をそもそも諦めていた。手順、ルール、流れ、それに依存したコミュニケーションを取っていた。そこから前に進み、大学時代後半になると、人生に迷っていた時期にインプットした言葉や逡巡を巡らした上での言葉を発するようになっていった。この頃から自分の発する言葉に明確に「自身の思考」というのが関与していった。しかしこの頃はまだそれらの言葉を使いこなせていなかった。自分が「正しい」と思った言葉をぶつけることはできても、語り合うことはできていなかった。
社会人になってからの言葉
社会人一年目として社会に出て働き始めると、まずはコミュニケーションの部分で大きなカルチャーショックがあった。それは「気を遣う」という概念だ。もちろん学生時代も自分の感情のままに好き勝手に言葉を発していたわけではない。思いやりが欠如した人間でもなかったと思うし「気遣い」という概念を知らなかったわけでもない。しかしここで私が言う「気を遣う」という概念は「気遣い」という概念とは似て非なるものであった。「気遣い」とは「相手の考えていることを想像して気をつかう」ことと私は定義しているが、ここで言う「気を遣う」とは「自分を殺して、相手の意図にそぐわない行動をしないようにすること」である。今私は営業職として働いているが、対お客様とのコミュニケーションというよりは対上司の部分でこの「気を遣う」ということが当時の私は決定的にできなかった。「気を遣う」この中に自分の本音は無い。あるのは建前と保身である。私は本音を言うこと自体に固執していたわけではなかったが、物事や問題の核心の部分では自分の本心、言い換えるなら自分の正しいと思ったことを曲げられなかった。そういった性質が面白くなかったのだろう、社会人一年目の上司からパワハラを受ける事態に至っていた。しかし逆にそこで自分の「正しさ」を曲げなかったことが功を奏したのか8ヶ月ほどの時間はかかったもののなんとかその環境から抜け出せることはできた。
今私が発する言葉
では今私が発する言葉はどうかというと、社会人なりたてのように自分の「正しさ」をただ人にぶつけるということは無くなった。それは自身の言葉が「本音であるか」ということよりも「身の丈の言葉であるか」ということを重視しているからである。「本音」であるということに固執すること、それは即ちその「言葉」しか見えていない。つまり自分自身を見るということを欠いているのだ。「本音とは自分の本心のことだから自分自身を見ていると言えるのではないか?」と思われるかもしれない。確かに本音とは「自分の中の言葉」であることは間違いない。しかしあくまでそれは”自分の中の言葉”という「言葉」の次元を越えれてはいない。「身の丈の言葉」とは自分自身の存在、つまり自身の周辺との関係性の中で外縁された自己という自覚を持ちながらその上で発する言葉なのである。
そしてこれからも私はその言葉が誰かに伝わるということを信じて生きていく。それが私の身の丈の言葉だ。