小塩隆士 『経済学の思考軸 ――効率か公平かのジレンマ』【基礎教養部】[20240825]
前置き
今回の記事を読んでいただくにあたっての前提になるが、今私は私が所属しているジェイラボというコミュニティの中で書評活動というのを行なっている。その書評活動を行なっている部の名前が基礎教養部である。その活動の中で前回扱った本が下のリンク
そして今回扱った本が下のリンクである。
扱った本と言いながらも最初にお伝えさせていただくと本書「経済学の思考軸」を私は読んでいない。理由としては前回扱った「生きるための経済学」の経済学について記述してある部分が私の持っている経済学の考えと大枠の部分で一緒だったからである。だからといって「経済学の思考軸」もそうであるとは限らないが、本書が私の「経済学」という学問に対する考え方を変える可能性はほぼ無いと考え、それよりも今回の基礎教養部の活動の中のミーティングで着想を得た内容を記事にする方が有意義だと考えそちらをメインに今回は記事を書かせていただく。
笑いについて考える
それでは今回私が書きたいテーマ「笑いについて考える」の内容に入っていきたいと思う。
そのきっかけを与えてくれたのは下記の記事であった。
この記事は主にM-1グランプリについて書かれている。私は「笑い」そのものについて考えていくという切り口で話をしてきたいと思う。笑いとは、楽しさ、嬉しさ、おかしさなどを表現する感情表出行動の一つである。学生時代の私はこの「笑い」というモノに強い思い入れがあった。
学生時代の私は人を「笑わせる」ということが大好きだった。小さい頃から人と分かり合えた試しが無く、ついたあだ名は「非理屈大魔王」。そんな私にとって人と「分かり合えた!」と思える瞬間が人を笑わせる瞬間だった。「自分が人を笑わせる行動をとってそれに対して人が笑ってくれる。なんと確かなコミュニケーションだろうか!しかも相手は笑っている時は喜んでくれているようでもある。笑いとは何と素晴らしいものなのか!」。私は人を笑わせるということにのめり込んでいった。小学校と中学校の時の卒業文集の面白い人ランキングではどちらも1位だった。それも素直に嬉しかった。私は他のどの同学年の生徒よりも周りを笑わせている自信があった。そしてそれは周りからの卒業文集のランキングという形で自分のその自信が間違っていなかった、つまり周りもちゃんと笑ってくれていたんだということの確認にもなった。この頃の私はその「笑い」を人との「繋がり」だと考えていた。そして「繋がり」は「笑い」という現象によって確認できるモノだとも。
高校に入り相変わらず周りを笑わせることは好きだったがその頃から違和感を覚えるようになっていった。その違和感の正体が大学生になった頃に分かった。周りを笑わせてもそこに「繋がり」を感じられなくなっていたのだ。
今考えればその理由は単純で、小中学校の時は周りも地元で見知った仲ばかりだったので私のことを「笑わせる」の前に「小林君」として繋がっていてくれたのだ。そんな簡単なことに当時の私は気付けなかった。しかし人を「笑わせる」というのは怖いもので面白いことをすれば多くの場合人は笑ってくれるものなのだ。そして関係性があろうがなかろうが「笑う」という現象に差は無いのだ。そのことが私を更に迷走させた。自分が人を笑わせる行動をとってそれに対して人が笑ってくれる、そのことが「繋がり」であるという勘違いに気付けていなかった私は更にその「笑わせる」という現象に固執していった。笑わせている瞬間だけは「繋がり」というものを自分の中で感じられた。「もっと笑わせなくちゃ、もっと笑わせなくちゃ」しかしそれはただ笑わせてくれるだけのコンテンツになるのと同じことである。いつしか私は自分が「笑わせるコンテンツ」という消費物に自分からなっていることに気付いた。そして「人を笑わせる」ということに興味を失っていった。
それから月日は流れ今の私はというと「笑い」ということについては割と肯定的に見ている。人とコミュニケーションを円滑にする上で便利なものではあると思う。ただ「笑い」そのものに昔のような特別な感情は無いし、それで良いと思っている。
世の中は日に日に便利になっている。スマホを見れば数十秒あれば私達を笑わせてくれるコンテンツに辿り着ける。我々はその目の前の光景に人を感じることができているだろうか。