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僕らが旅に出る理由 続

僕の人間性や癖みたいなものを生かしてみたい。
けれど、僕が「あなたはどうなりたい?」という今一番の目標について問われると、「平穏無事な生活」と言ってしまう。

安心がある生活。自分の居場所。
争いや憎しみの極力少ない日常。
苦しみが連鎖しない、希死念慮に足元を完全に救われない生き方。

最近、酔っ払いの戯言や、僕からの始点(視点)で的外れな人の言動に対して、過去の自分と比べて大きく怒らなくなった。
とはいえ自分の大切な時間、かけがえのない日々日常の力をそんな人や物に奪われたくないと言う気持ち意識は変わらない。だから、そういった人たちや場所には極力関わらないようにはしている。

けれど、中には当たり前のような当たり前のような事を言う人がいて。
そんな普通の話(どこでも聞けるような話)を聞くために人に時間や労力を奪われる苦痛に苛立っていた僕ですが、そんな戯言や与太話の中に、僕が見失っていたり気付いていなかった事のヒントになるような発言がある事に気がついたのです。そして自分も同じような過ちや間違いをしている、と気付かされる事もあったりするのです。

あったりなかったりなので、極力、相手にしないように、馬鹿にしたり見下している人とは関わらず、自分に害を与えるような人間とは関わらないように、相手を見極め見定めるようにしています。

そして、どこかの地点で相手を見限ることが出来れば
「はい、こいつ死んだ」
と、割り切って我に帰るようにしています。

だから僕と縁があった過去の人や、昔の僕だけを知っていて、今の僕に対して何か言いたい人は、僕が昔とは少し違うと知っていてくれれば幸いです。

今でも苦痛や怒りで死んだような目になる時もあるけど、まだまだそれも馴染む期間。

今でもまだ我が強くて、癖も強くて、まだまだ頑固に見える部分もあるのですが、それも含めて僕の個性特徴ですし、僕もそれらの過去や出来事を抱えて生きていくつもりです。

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今年に入り、ばあちゃん(祖母)の認知症が一気急に進行。
今話していた事も忘れ、一日に何度も同じ話をし、何度も何度も聴いてくる話に毎回同じ回答をするのは本当に苦痛です。

介護をしたことがある人にしか解らないかもしれませんが、家族が認知症などの理由で介護をしなければならなくなると一番つらく感じるのは、自分が知っている親や祖父母が壊れていく姿が見ていられない、全くの別人のように変わっていく姿に耐えられないのがストレスや苦痛の原因だと僕は思います。
介護疲れには様々な理由はあると思います。
病院や介護施設に全部を任せるのは簡単なようでお金がかかります。
我が家みたいに祖父母を、家族では世話しきれないところまでは病院や施設と自宅での介護を半々で担う家もあると思います。
完全に自宅で家族だけで介護をするのは相当な苦労労力がかかります。

食事だけの介護なら頑張れると思います。我が家はお金に関する部分は母親が管理して支払いなどは僕がしています。これは祖父の認知症が始まった時のあの一件から僕がしています。
一人の人間のお世話というのは本当に全部です。
誰しもが立ち止まり選択を迫られるのは下の世話だと思います。僕は出来ません。何度も同じ説明をしても繰り返す、徘徊、徘徊からくる事故や騒動は僕は対応できます。でもこれは僕が普通のサラリーマンとして定時勤務をしていれば不可能だと思います。なので、そういう家庭や家族の方は介護施設やサービスを依頼して、自分達では出来ない部分をフォローするのです。
介護施設の費用については、利用するサービスによって大きく変わりますが、当然、当人が元気なうちは施設に終日預けてしまうのは我が家では出来ません。お金の話をしているのではなく、心情的にしません。
そんな中で疲れたり、どうするか、の判断選択を迫られるのは人間ならば必ず通る道だと思います。これからの時代は、ちょうど「超高齢化社会」から「多死社会」への過渡期なので、ますます僕らは考えて生きていくと思います。知らない、解らない、では済まされないのです。

人間として生き残るのは強い遺伝子や種ではなく、対応力、変化する為の力を持っているのが基本的な生活を形成する上での条件だと僕は強く体験している最中です。

お金があれば介護には苦労しないというのも違います。
お金が無いから介護に苦労する訳でも無いと僕は思います。
ようはそこも人間としての生き方、人間性の話だと思うのです。

「嫌!」
「したくない!」
「わからない!関係ない!」

そうやって逃げるか回避できる人もいるので、要は、
人間としての力(人間性)の話だと思うよ。

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「考え過ぎる所も涼太の良さだし、それに飲み込まれてしまうのも涼太らしさだから」

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悪い人じゃないんです。変な人ですけど、いい人なんです。
優しい人じゃない。良い人じゃない。
良い人業では生きていけない。食っていけないよ。
どうしても、どうしたって僕は僕なのだ。

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そんな今日も、僕は生きています。
色々あるけど、だけど、それでも僕らは生きています。

みんな、人生、それぞれ、色々あって、今ここ。
それでも僕らは生きている。

まさにその通りじゃないだろうか。

自分が足りじゃなくて映画か自伝にしたいよ。

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公私混同して、24時間365日。
真夜中の中、寝ても覚めても、夢の中でも雨の中でも。
僕は生き辛いのです。
何故ならって、僕の意識が常に乱雑したまま同時に走り、ノイズ、雑音を発信しながら僕は生きているから。
僕と君も柵の中。でも実は、本当の世界はそこまで複雑なようで単純明快に生きられるはずだったりもするのです。
シンプルにいけよ、だけじゃないのが、群像する僕ら。
その心理なんてのは、今は答えは出さないけれど、そのそれなりに僕らは幸せを感じながら、そこに感謝をして、それでもツラい辛いと泣き、傷つき、裏切り裏切りられ、嘘もつき、優しくもし、それでも絶対なことは
「僕らは必ず死ぬのです」
だからどうしろという訳ではないのですが、後悔や未練や葛藤、自問自答も繰り返すのです。悲しきかな諸行無常な事も大人になれば、地に足着いたり浮ついて転がり落ちたり、それでもまた僕らは立ち上がり、それでもそれでもそれでもと、求め続けるのです。

だから僕は、今でも、忘れられないのです。あの風景。
僕が生きた、今でも忘れない、忘れたくない、生かす風景。

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最期まで看取る。最後まで付き添う、連れ添う。それが「愛」なのだと思う。それを覚悟や責任などと人は言い、僕は中途半端な気持ちや思いでは出来ないと考える。腹を括るには生半可な気力や体力ではできない。けどそれが、そこにあるのが「愛」なのだと今は思い、眺めています。そして同じように大事なのは「相性」なのだとも想い、眺めているのです。

僕は死なない理由を探しています。それは死ねない理由を探している訳なのだけど、自分のルーツ、血のルーツを知ることが己の問題を解決すると知りました。

我が家のルーツ、それは遺伝子、遺伝する人間としての部分の確認。
人間として自分の生まれた過程をさかのぼり辿る事は大きな分岐点や役目になるのです。
先天的に受け継いだものなのか、後天的に環境が与えた影響なのか。
それも確認ではなく「再・認識」する為には必要だと思いました。

上手く綺麗に癒えないけど、上手には言えないけど、家系図を見て「これが血筋か」「これが我が家のルーツなのか」と、そこだけを見ただけで済む人もいるでしょう。

でも僕が着眼点にしたのは
「どうして自分が産まれたのか」
「この気質や人間性は、どこから受け継がれているのか」

そうすれば否が応でも、その気があれば、自分を生きる為に生き易くする為の修正や、癒す為には、自分の問題点を、辛くても(耳が胸が痛くても)知る必要があると思うのです。

「どうして死ぬような事になったのか」
「どうして死ぬような経緯になってしまったのか」

それが自分の存在を整理していく為の大きな鍵になるのです。
経験談、体験談です。

人によって答えも道筋も違うので、一概に言えません。
僕の力では全部を書き残そうとしても出来ません。

だから、すべてを伝えることが正しいとは言えないのです。伝えようとして必死になっても苦しくなるだけ。だから上手くは言えないけどさ。

「死んじゃうだけだよ」

楽しく生きていくにはさ、秘密ガールが必要なのかもね。

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僕は死にかけた。これは真実であり事実だ。
でも生々しいと言うより、人間なんてそんなもんだ。

あの時に僕の声に返事を返してくれた人。
僕の助けてという声を無視し、無碍に切り捨てた人。
僕は今の僕になるまで繋いて、
一声、助けてくれた人、救ってくれた人に感謝している。

けどね。
その人だって、タイミングの問題だったりする。
だから、僕は
「いつまでも生きていると思うな」
「連絡したい時にそう都合よくつながると思うなよ」
そうも言い切り捨てた。

でも、僕が恩義を感じて感謝している人たちだって、この2年で疎遠になった人もいるし、それこそ今度は相手が今大変な時で、僕はその人から連絡やヘルプのメッセージが来たらそこに対して返事をする。
そんな人間関係や付き合い方をして、それでも縁が切れてしまう事もある。
10年や20年経ってから、突然、連絡が着たり繋がる人や時もあるだろう。

だから、僕は今は必要以上に返事はしないし、してもらった分の感謝と愛情は返す。
でも、今まで僕が
「(こいつにしてやったのは)死に金ではあったな」
「こいつにそこまでする義理も無いわ、無かったわ」

と判断して見極め捨てた人は、ブロックだね。気になったりもしない。

それも
「人生色々あったよね」
「そんな事もあったよね」
なんて、軽々しく言われたくないから。

繰り返される諸行無常よ。
まさに、僕の人生は マイネイムイズナンバーガール よ。

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もうナンバーガールがどこかのライブイベントの告知のところで見かける事はないのだ。

そういわれたら3年前まではそれが当たり前だった。だからこの3年間、「ナンバーガール」の文字や、あのギザギザのデザインを時々見かけていたこと事態が異常だったのだ。

いつのまにか
僕はナンバーガールが活動している事が当たり前になってしまっていた。

もしこれが1年限定や、本当にワンマンライブ一回だけだったら、僕の中でのナンバーガールはどこか未完のままだったと思う。

本当に神様、ありがとうございます。

異常空間Zとは、ナンバーガールが舞い降りた、目の前にいるあのライブだけの事を指すのではなくて。

ナンバーガールの名前を見掛けることがある日常事態が異常だったんだ。

この3年間は、向井君、アヒトさん、田渕さん、中尾さんからの叱咤激励だったのだ。お前さん、いつまでそこでいるんだ?そんな風に言われているみたいで、なんて考えるとまた涙が溢れてしまうのです。ごめんなさい。ありがとうございました。


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僕が体験談やこの一連の長い長い過程を書き残して伝えたところで、今現在進行形で苦しんでいる人、悩んで立ち止まっていたり、今の今も「死にたい」と自殺願望や希死念慮に苛まれている人が、僕の話を聞いて、それを受け止め納得する事なんてないと僕は思っています。

僕も同じような、似たようなものです。

「お前は成功したから偉そうにそうやって言えるだけだろ」

「今は上手くいったから美談にしてるだけだろ、自分と一緒にするな」

「自分の方が辛いし、お前よりもっと複雑で地獄のような日々生活を送っている」

「お前なんかには判らない、解かってたまるか私の不幸が」

と言うのが、僕らでしょう。僕もそう思っています。

なので、それもご勝手に。自由にすればいいと思う。
どうなろうが僕には関係ないし、僕に害が無ければ無縁の人たちなので、今までみたいに影響もうけませんし、心配もしません。優しくもしません。返事も返しません。切り捨てています。

最近また気がついたこと、納得した事は。

他人はどこまで親切に、大切にして助けたり、尽くしたところで、他人なのです。どこまでいっても所詮は他人も他人。
その場では「ありがとう」や「一生忘れない」と感謝を伝えてきたところで、そんなことは一瞬、あるいは三日。
人生単位で観れば取るに足らない出来事みたいに忘れ去り風化するのです。

僕のこの遺伝され受け継がれててきた性質気質と、僕が生きてみてきた世界が生み出した価値観やモノサシの結果は

他人に対して、そこまで大切にしたとして、所詮は他人。所詮は人間。
人や物事に対して、取捨選別、見極めが出来ると僕みたいな人間は、
少しは生きるのが楽になると思います。

やっぱり、答えなんてものは一生わからない。

僕は自殺願望ではなく、希死念慮を抱えながらも、僕が生きてきた道や、この世界を愛し抱えて。

いつかナンバーガールに僕の思いや想い出を感謝と共に伝えられたら、それが僕の夢です。

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※メールボックスの下書きに書き残して置いたメモを羅列しています。
言いたい事、書きたい事、書きたかったこと伝えたかった事。
内容や過程、時系列も整理していません。

いつか整理、清書できたらいいのにな、と心からそう思っています。

まだまだ、またどこかで。

それはタイミングじゃなくて。
それはタイミングの話じゃなくて。

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神様、運命をありがとう。

神様からの運命という名の宝物、贈り物を、ありがとう。

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