天明大飢饉 この世の地獄について
今回は日本史について書きたいと思います
江戸時代と言えば色々な事が起きました
戦→天草・島原の乱、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦 文化→元禄文化・化政文化 改革→享保の改革、寛政の改革、天保の改革
そして飢饉です 江戸四大飢饉というのがありまして、寛永の大飢饉、享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉です
この中の天明の大飢饉について解説してきたいと思います
事の発端
1783年、江戸時代
今の群馬と長野の県境にいる浅間山が大噴火しました その灰が太陽を遮り気温を低下しました
またそれと同時に運悪く借金をしていた藩が大量に米を大阪に売ってしまいました(需要と供給の関係で米が少ないときは米の価値が高くなります。借金を返済するためには米を早く売るしかなかったのです)
また東北地方で広がるヤマセ(オホーツク海気団が原因で起きる冷害)が合わさりました
浅間山の大噴火(気温の低下)+藩が米を売る(米の備蓄が無い)+ヤマセ(冷害)の3つが合わさり天明の大飢饉が起こりました(ちなみに東北地方では大体が米の備蓄はゼロでした)
全国で起こったのですが、その被害が最も大きかったのが東北地方(特に 津軽、弘前、仙台、盛岡、八戸、相馬がひどい)
なので東北地方を例として紹介します
狂っていた例
この頃(天明の大飢饉)に起こっていた例があります
東北地方の農村(天明の大飢饉の影響が大きかったところ)で
農民A「農民Bさん、ちょっといいですか」
農民B「何でしょうか」
農民A「農民Bさんの家に(飢餓で)死んだ母親がいらしたでしょう?その人のもも肉をください」
なんていう物騒な話 家族が死んだその人に家族の肉をくださいと頼むなんて
農民Bは断るだろう、と思いきや
農民B「分かりました、ただし農民Aさんのところに死にかけの父親がいるでしょう。その人が死んだら肉を分けてくれ」
農民A「分かった、交渉成立だ」
これが当たり前でした 食わなきゃ、食われる、まさに「弱肉強食」を文字通りあてはめてました
何でそうなってしまうのか
このように人間が狂ってしまった原因としては、当たり前ですが空腹が挙げられます
まず人が空腹になると「食事をしたい」と思いますね これは当たり前であり、食欲に従ったものです
しかし、飢餓状態に陥って、空腹の限度を超えると「どんな方法でもいいから食べなければ」という常軌を逸します これはもう「食べなければ死ぬ」という人間の本能がそうさせてしまったのでしょう
また精神面だけではなく、外見的にも変わります
飢餓状態の人は異様にお腹が膨れていると思いませんか?
あれたくさん食べたからそうなったわけではなく、栄養が足りないためお腹の骨が細くなります
そしてその細い骨が上半身を支えれなくなると、折れます それにより今まで統制が取れていた胃が骨が無くなったことで、飛び出す現象が起きます
それにより、お腹が膨れます
飢餓状態は人間の常識、規律、ルールすべてが一変するのです
政治的な影響
ちなみに、この天明の大飢饉で日常だけでなく、上層部も変わりました
この頃の政治の中心は田沼意次でした
この人は重商主義ということもあり、農業を大事にせず、結果天明の大飢饉で死人が増加しました
各地で打ちこわしが相次ぎ、田沼意次は辞めさせられました その次になった老中は松平定信です(寛政の改革で有名)
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我々の時代もおかしい
現代の感覚でいえば、天明の大飢饉はおかしかったですが、全史を見ると 現代の時代がよっぽどおかしいと思います
天明の大飢饉では食べ物が少なかったから困ったでしたが、現代では食べ物が多いから困ったという変な対比が起きています
日本の食糧廃棄は年間643万t、世界で6位です(2019年農林水産省統計)
これは世界中で飢餓に苦しむ人に向けた食糧援助量(年間420万t)の約1.4倍です
作ってくれた人や食事に感謝するために、飢餓にならないためにも、食品 ロスを無くすべきでしょう
使った資料
天明の大飢饉について
食糧廃棄について