【短編】『瞑想/迷走』
瞑想/迷走
煩わしい電話の着信音が聞こえなくなると、再び私は瞑想に耽った。緊急の電話ならまた再び鳴るに違いないと思いながら、一時の不安な感情を忘れ去り、暗闇なのか空白なのかわからぬ曖昧な世界へと感覚神経を沈めていった。
遠い向こうから何やら小さな物体がこちらへと向かってくる。その姿は徐々に大きくなり存在感を増していく。と次の瞬間あっという間に私の横を通り過ぎて行ってしまった。それは昨日乗り遅れた市営バスのような形をしていた。いいや、もはやバスではなくただの影か光の集合体でしかなかった。すると今度は、どこからか赤ん坊の鳴き声が聞こえてくる。その声は、夜の満員電車に揺らされるジメジメとした空気を思い出させる。突然その声は消えてしまった。ふと目線を映すと、目の前には大きな体をしたクマが立っている。クマは私のことを見つめてじっと動かない。クマ以外には、樹木も土も池も何もない。ただクマだけが突っ立っているのだ。私は、瞑想の邪魔とばかりにそのクマを払い除けようとするが、山火事の火のように自然発生してしまう。私は困ってそのクマと対話をしようと思い一歩前へ出る。
「邪魔しないで」
「――」
「何が欲しいの?」
「――」
クマはなかなか口を開いてくれない。
「何か言ってくれないとわからないでしょ?」
「――」
仕方なく、私はクマと共に瞑想を続けることにした。しかし、なかなか目の前のクマの存在が私の感覚神経を刺激して、さらなる境地へと進むことを阻んだ。その時、クマが一言唸ったのを私は見逃さなかった。お腹が空いているのだと直感が働いて、冷蔵庫に二週間と放置していた腐りかけた焼き魚をポケットの中から取り出してクマの足元に放り投げた。しかしクマは全く微動だにしない。焼き魚はぶくぶくと泡を立てて見えない空間の底へと沈んでいく。するとクマは一瞬何か音を察知したかのように耳を立ててから後ろを振り向いてゆっくりと去っていってしまった。
私は何もない空間の中で心を落ち着かせ、さらなる瞑想に入る。目の前に広がる何もない空間は、徐々に球体の形を成していき、さらにその先には空間なのか見分けのつかない境地が広がった。目の前にはまだ球体の形をした何もない空間が存在している。まるで地球そのものを俯瞰して見ている気持ちになった。後頭部がビリビリする。まるで電気を直接体内に送り込まれているかのようだ。それはアイディアを具現化したものだった。私はそれを体内に吸収した。すると、ある考えが浮かび上がった。感覚神経を極限まで沈めていくことによって何の雑念もない、何も存在しない無の境地を体験することができる。そしてさらにその感覚から完全に解放されることで、一種のトランス状態に陥ったように、何も考えていないことすら忘れてしまう。そこに出現するのは、「無」の境地ではなくむしろ「存在」の境地だ。まるで、忘れてしまったことを忘れてしまう、あるいは、思い出せないことを思い出せないといったように、現実世界とは常に一線を画して潜在的に存在する単なる矛盾地点だ。どこか、「私は誰なのか。この世界はどうして生まれたのか」といった何もかもを疑った時に出てくる疑問に似ている。
そこにはいつも矛盾が存在している。そしてその矛盾を客観視することができて初めて、一人前の瞑想家となれるのではないかと私は思う。と考え事をしていたがために、すぐにその「存在」の境地から私は遠ざかり、徐々に「無」の境地へと引き摺り込まれていく。自我が戻ると、目の前にクマが現れる。クマは私に先ほど渡した腐りかけの焼き魚を返してくれた。嫌な匂いがした。私は焼き魚を再びポケットに入れ、冷蔵庫の元の位置に保管されていることを確認した。このまま焼き魚は冷蔵庫が処理解体されるまで中で冷やされ続ける運命なのだ。と現実では一瞬の事象に過ぎないが、瞑想という非現実の中で長々と妄想に浸っているすきにクマは姿を消した。
再び暗闇なのか空白なのかわからない何もない空間が目の前に広がる。もうバスが通り過ぎることも赤ん坊の鳴き声が聞こえることもない。急に電話の音が鳴って私は瞑想から無理やり解かれた。着信履歴を確認すると、あまり連絡をよこさない母親からだった。
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