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【短編】『海の底』

海の底


 目の前には闇が壁となって立ちはだかる。どこからか聞こえてくる波打つ海の音が、鼓膜に心地良さを与える。柔らかいひだ状の膜が骨も爪も歯もない細い体を包み込む。膜は激しく揺れ動き、洗濯機のように縦に横に転がる。外で何が起こっているのか全く見当がつかない。わかるのはこの暗闇がいつまでも自分を自由から遠ざけるということだけだ。

 ついこの前までいた戦場でのことを思い出した。

 空中にはいくつもの鋭い水の線が飛び交っていた。四方から押し寄せる大気の濁流を避けながら目的の場所まで飛び続ける。機体から直接伝わってくる振動を無理やり抑え込むようにハンドルを力強く握りしめる。制御が効くうちはまだ快適な方だが、これがまったく言うことを聞かないとなるとかえって厄介だ。まるで暴れ狂う猛獣を相手にしているようなものだ。

 ようやく色褪せた世界を抜けると、鮮やかな青が視界いっぱいに映り込む。再び機体はおとなしくなり、何も言わずとも勝手に意思を汲み取ってくれるかのように操作に一切の無駄がなくなる。その瞬間、この機体と自分が心でつながっている予感がする。彼は自分の相棒だ。


 何かの破裂音で目が覚めた。覚めたと言っても見えるものは闇だけだ。膜は徐々に縮んでいき、このまま体は潰れてしまうのではないかと思った矢先に急激に膨張した。破裂音は何度か続いた。外ではまだ戦争が続いているようだ。遠い過去の記憶とばかり思っていたが、それは今に直接的に繋がっている。つまりは記憶とは過程としての役割を持つ一方で、現実の一部でもあるのだ。時間を人間の身体に例えるならば、現在が腕や足などの目に見えて動くものである。一方で、過去や未来が心臓や脳などの内に秘めて見えないものなのかもしれない。今闇の向こうで起こっていることは時間という重さのない物質の全体における一部でしかない。

 そういえば、ある時上官からこう言われたことがあった。

「お前たちの行動一つで国の将来が変わるということを覚えておけ」

 自分が国の存亡をかけた重要な任務を担っていることは理解していた。だが今改めて思うのは、それが比喩などではなかったということだ。自分のしたことが国の将来を変えた可能性だってあるのだ。名前は歴史に刻まれないものの、その歴史を創った者の一人であることは間違いない。誇りに思って良い。実際に国が変わったどうかはわからない。この闇の壁さえなければ判明することだ。

 しかしこのまま世界のどこに位置するかもわかぬ場所に監禁され続け、元の生活に戻れないのだとしたら話は変わってくる。国の存亡などもうどうでも良いことになってしまってもおかしくはない。なぜなら自分はすでに国民ではないのだから。国民だった者なのだ。

 敵対していた相手はどうだろうか。何のために自らの命を犠牲にして戦ったのか。彼らの国は、この闇に包まれた場所に送り込まれた人間たちを躊躇なく国民と呼んでくれるだろうか。結局のところ、国は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を国民に与えるのではなく、健康で文化的な最低限度の生活を営める人間のみを国民として認める方針なのだ。

 では我々はなぜ戦わなければならなかったのだろうか。命を捨てて命を消す。数学的に考えれば、二つの命が一変に消滅し、それが万単位で行われるとなると、大きな損失として換算されることは必須だ。しかしこの世界では数学は通用しない。通用するのは、マイナスをプラスへと無理に変換させる魔力だ。その魔力は数学と違って人間の手によって生み出される。あるいは人間が生まれると同時に自ずと醸成される。一方で、数学も人間が生まれることで初めて存在を認識される。その相反する双方がこの世界を形作っているのだ。


 いつの間にか体を包み込む膜は小さくなっていた。狭いぞと訴えても誰も返事をくれない。波の音が以前に増してより鮮明に聴こえる。どこからかする甘い香りが身動きを取れずに暴れようとする体を落ち着かせてくれる。良い心地だった。まるでぬるいチョコレートの海の表面に裸のまま顔を出して浮いているような気分だ。もう一生このままでも良いのかもしれない。そう思った矢先に、一瞬その甘い香りの中にドブ水のように腐った臭いが混じったような気がした。

 少し離れたところに小さな光が反射して映った。よく見ると一人の男の体が浮いていた。両手で水をかいて男のそばまで行くと、体に空いたいくつもの穴から血が流れているのがわかった。波の力でどこまでも漂流しているようだった。胸には光り輝くバッチが三つ並んでいる。その下に小さく英字でTylerと書かれている。彼はすでに死んでいた。死体といえども、再び敵と遭遇してこちらを睨みつける気力だけは残っているようだ。胸ポケットから紙のようなものが顔を出していた。ゆっくりとそれを引き抜いた。紙には、大きな白い家の前に男が立ち、隣に女性が一人、足元に小さな女の子が一人芝生に寝そべって映っていた。男の険しい死に顔を一瞥してから、写真の方に視線を戻した。笑うとこんなにも優しそうな顔をするのか。

 彼の家族を不幸にしたのは自分に違いない。自分は機体に乗っていたため撃墜した敵機に入った人間の顔など知る由もない。しかし、なぜかわかるのだ。この男を殺したのは自分であると。彼の睨みつける眼差しがそう言っている。たちまち左右のこめかみに強い痛みが走った。気がつくと視界はぼやけ、液体で潤い始めた。

 なぜ殺してしまったのか。殺す意味はあったのだろうか。彼の家族は今どんな思いをして生きているのだろうか。人を殺せば不幸になる人間がいることは想像すればわかることだ。だがあの時は、自分がいかに国に尽くすかしか頭になかった。この闇の中では、敵への憎しみを一切忘れられる一方で、自分に対する恨みが体を蝕んだ。


 膜は猛烈な勢いで縮んでいった。ひだが体に張り付き、手足を伸ばすと膜はゴムのように伸びた。しかし元に戻すとそれに伴って縮んだ。まるで体の皮膚と一体化しているかのようだった。耳が硬くなっていくにつれて、波の音はますます大きくなった。闇は急激に形を変えていった。なぜかまだ息をしている。遠い過去の記憶が徐々に薄れていく。その記憶が自分のものであったかどうかもわからない。とうとう記憶が消えようとした時に、一つの光が柔らかい頭蓋骨を駆け巡った。

 自分はあの時、機体に乗っていた。荒れ狂う空を抜けて青い大きな海が見えた時には、すでにそこは戦場と化していた。機体はまるで自分の分身のように空を駆け抜け、四方で飛び交う光の線を避けて進んだ。標的はすぐ目の前にあった。そこへ、敵機が並行して隣に並ぶ。このままでは撃ち落とされる。そう思ってすぐに上空へ旋回し、敵機の後ろにつく。相手はなす術もなかった。あっという間に海面へと落下していき、激しい水飛沫とともに大破した。相棒はすでに敗北した敵機に目もくれずに標的へと向かっていた。

 これだ。

 これが最後に目にした光景だった。機体はそのまま大きな敵船に向かって激突し、爆発の勢いで海に叩きつけられた。

 思い出した。

 ここは闇の中などではない。海の底であった。記憶はゆっくりと体から失われていき、最後に残ったのは意思だけだった。自分はどこかに生まれ、何かに尽くした。同時に何かを壊したりもした。そして捨てられた。記憶ではないものを頼りに思考は心を揺るがせた。心は思考に惑わされながら自ずと一つの心理に行き着いた。ああ、生まれなければよかったんだ。体はゆっくり心の目を閉ざし、再び外の空気を吸う前に闇の中へと溶けていった。


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