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【短編】コンピュータが見る悪夢(中編「密売人」④)

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コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」④)


 紙に唾液をたっぷり染み込ませ、ゆっくりと喉に気体を通した。すると肺は瞬く間に膨れ上がり、汚染物を外に出そうと反射的に横隔膜が跳ねた。フィルはもう一度煙を吸った。今度は胸に力を入れて横隔膜の運動を抑えた。気体は気管を通り、気管支へと到達する。そして肺門を通り、気管支から毛細血管へと流れていく。ある時点で呼吸の波が反射を告げた。気体は一部のニコチンと一酸化炭素だけを残して体の外へと一挙に出ていく。今度は汚染物とは認識されなかったようだ。

 煙はおいしくもなく、不味くもなかった。煙は部屋の中を一周し、酸素の濃度とともに大人になることへの憧れも薄まったような気がした。幸い父が家に戻る頃には、タバコの香ばしい匂いはしなくなっていた。さっきまで我が物顔で部屋を占領していたはずが、外の空気に触れた途端、綺麗さっぱり消えてしまった。

「買い物はちゃんとできたのか?」

「うん」

「そうか。ならいいが」

 父の右肩の上には大きな段ボール箱があった。今日も真夜中に鐘の音が響き渡る。父はテーブルに置かれたウォッカを一瞥して、そのまま寝室へと歩いていった。酒が入ると父とは威勢を張って説教を垂れ始めるが、普段は無口で静かだった。ずっとこうして無口でいてくれればいいが、酔って拳を振るうことばかりが記憶に残り、フィルにとって父は恐怖そのものだった。一方、父にとって説教をすることは、大切な親子の会話の時間でもあった。息子からの意見がなかったり返答がないと、会話を無視されたと思い、つい手が出てしまうのだ。その時はいつも酔っていて、暴力を振るったことは父の記憶には残らなかった。

 フィルは夕食を済ませ、ベッドに寝転がりながらタバコを吸った時の感覚を思い出していた。真上に右手を伸ばして親指と人差しで細い筒を持つふりをする。ゆっくりと筒を下ろして先端を口で咥える。息を吸い込み肺に空気がたまったのがわかると、ゆっくりと息を吐き出す。フィルの目には、部屋の天井めがけて煙が浮いていくのが見えた。実際にタバコを吸った時よりも、何もない方が上手に吸えている気がした。なんだか嬉しかった。

 フィルは目の前に漂う煙の妄想から、香ばしい匂いを嗅ぎとった。フィルの背筋が一瞬凍りついた。さっき吸った煙がまだ残っている。そう思い、急いでリビングに向かうと、ベランダで外の赤提灯を眺める父の姿があった。指に挟まれたタバコの先端は赤く灯り、手すりの上には先ほど自分が買ったのと同じ箱がそっと置かれていた。タバコの先端から緩やかな川が流れ、煙が家の中へと運ばれてきていた。フィルは安心した。右ポケットには自分が買ったタバコの箱が入っていた。フィルは再びベッドに戻った。

しばらくすると、カチカチという音がドアの向こうから聞こえてきた。フィルはいつものように、その音を子守唄代わりにして寝ようと思ったが、ふと父が何をしているのかが気になった。何かを外しているようでもあり、組み立てているようでもあった。わかることは金属を触っていることだけだった。カチカチ、カチカチ、カチャッという音が断続的に響いた。

 五十回ほど同じメロディーが流れると、音は突然にして止まった。気がつくと、眠気は覚めていた。ここまで長く父の作業の音を聞いたのは初めてだった。すると玄関の扉を閉める音が家中に響いた。作業が終わったようだ。フィルは今しかないと覚悟を決め、ベッドから飛び上がた。段ボールは父の寝室の中央に置いてあった。まだ封をしていないのか、口が開いていた。身動きを止めて耳を澄ませた。まだ外にいる。足元にある段ボール箱を一つ一つ開けていった。中には、全体が黒く、先端が細い、くの字に曲がった物体が綺麗に並べられている。中から一つを取り出し両手に持つと、その重さに触発されて罪悪感が芽生えた。なんだろう。金属というのはあっていたものの、馴染みのあるものではなかった。フィルは得体の知らない黒い物体に目を輝かせた。

 その時、後ろのドアがゆっくりと開いた。そこには眉間に皺を寄せドアに寄りかかる父の姿があった。謝ろうとする前に、すぐさま大きな手のひらがフィルの頬を打った。その痛みはいつもより激しく、父の強い怒りが感じられた。

「勝手に入るなと言っただろ?」

「ごめんなさい」

「これが何かわかるか!」

「いいえ」

「これはな、拳銃っていうんだよ。人を殺すための武器だ! てめえはそんなもんも知らないで面白がって触ってたのか!」

「ごめんなさい」

 たしかによく見れば、テレビのカルトゥーンでバッドマンの敵が持っていたものに似ていた。すぐさまもう片方の手のひらがフィルの頭めがけて飛んできた。フィルは床に倒れ、いつものように痛みで泣き叫ぼうと思ったが、なぜかこの時は感情より先に言葉が出ていた。

「じゃあお父さんはどうなの? 人を殺すものを作って世の中の役に立ってるって言うの?」

「なんだ? その歳でもう口答えか?」

「――」

 フィルは真剣な眼差しで父を見た。

「いいか。良いことをすることが世の中を良くするとは限らねえ。悪い奴のために働くことがかえって世の中を良くすることだってある。そもそも何が善で何が悪かなんて誰が決めるんだ? 神か? いいや、神なんか存在しねえ。だから結局どうだっていいんだよ。善か悪かなんてのは馬鹿が考えることだ。おれはおまえに良い行いをしろとは言っていない。世の中の役に立てと言ったんだ。おれは誰かが誰かを殺すための役に立っている。なんか文句あるか?」

「いいえ、ありません」

「なら部屋に戻ってすやすや寝るんだな」

 部屋に戻るフィルの頭の中で父への疑念は増殖し、恐怖心によって無理に繋ぎ止めていた父への信頼は崩れかかっていた。どうして悪いことをすることが良いことになるんだろう。フィルには父の言った言葉がまったく理解できなかった。大人の言うことだから正しいのか。それとも父が間違っているのか。社会を知らないフィルには判断がつかなかった。

 ある日の朝、テーブルにメモが置かれていた。買い物リストだった。


 買い物を頼む。ベーコンとボディソープ、歯磨き粉、

 ラークのクラシックマイルド。くれぐれもタバコを間違えないように。


 フィルはリュックを背負って再び売店へと向かった。おじいさんは相変わらず新聞を読み耽って顔が見えなかった。――おじいさん、のはずだ。ベーコンとボディーソープは売店には売ってなかった。フィルは商品棚の中から歯磨き粉を探した。朝にもかかわらず人が多かった。そういえば昨日はサンクスギビングスだった。翌日の朝から昼までは値引きをしているのだ。早く家を出て良かった。安く買えればきっと父も喜ぶはずだ。

 いつも使っている歯磨き粉は一番奥の商品棚の上から二段目にあった。すでに十歳を超えたフィルにとってはそれを取るのは容易かった。腕を伸ばして歯磨き粉を取ろうとした時、他の腕が伸びて別の歯磨き粉を手に取った。すると、その手は歯磨き粉を握ったままピンクのハンドバッグの中へと消えていった。

 フィルはその光景にハッとした。目の前で起こったことはいわゆる〈盗み〉であった。外国人女性はハンドバッグを肩にかけながら靴をカタカタ鳴らしてレジへと向かった。タバコを選んでいるようだった。女性が指差した箱をおじいさんが手に取ってカウンターに置いた。女性は財布から紙幣とコインを取り出すと、タバコを握って店を出ていった。一連の動作は無駄なく円滑に行われた。フィルの目を奪った歯磨き粉はバッグの中から出てくることはなかった。


最後まで読んでいただきありがとうございます!

▶︎続きの【中編「密売人」⑤】はこちら


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