【短編】『いつも正午に』
いつも正午に
私は道路沿いに置かれた椅子に腰掛け、広場の中央にある市場を犬が駆け回る様子を眺めながらふと今まで自分は新聞を読んでいたことを思い出した。丸眼鏡をハンカチで拭き直して、膝の上に置いていた新聞紙を目の前に大きく広げた。しかし、どうしたことかちょうど真ん中が、レンズの縁のように丸く切り抜かれているので外からの光が差し込んだ。穴に目を近づけると、広場の景色が再び眼鏡に映った。すぐ向い側にある路面レストランの外に備え付けられたパラソルにはいつものように火が照り付けていた。その横にある花屋では新入りが働き始めたようで、店長がお客を演じて接客の仕方を教えているようだった。私は新聞を読むのをやめて室内に戻ろうと思ったが、時計台の針が12時を指していたため、しばらくいつものが来るのを待とうと街の景色を見ながら暇を潰していた。すると、市場の中から若い大男が現れては、外に並べられた野菜や果物を箱に詰め始め、テープをぐるぐると巻き始めた。犬はそれにお構いなしにひたすら市場の周りを走り続け、お客に可愛がられるとじっと座って撫でるのを許した。向こうにあるレストランの中からもウェイターが現れ、すべてのパラソルを畳んでは床に並べた。花屋の店長は周りを見渡しては何かに気がついた様子ですぐに店頭に並んだ花を新入りとともに室内に運び始めた。そして外に出てくると、椅子に座っている私の方を指さしては時計台の方に指を移動させ、新入りに何かを教えている様子だった。するとカンカンカンという音が聞こえたかと思うと、反対の道路から路面電車が現れ徐々に速度を落としていき、市場と私の間でゆっくりと停車した。中から人が降りてくるわけでもなく、ただ電車は何かが起こるのを待っていた。
私が新聞を閉じてから5分ばかりが経った頃だった。犬が走り回るのをやめ市場の男が時計台の方を見やると、時計の針が12時5分を指した。途端に大地が軋み出し、目の前に停まっている電車や市場、向かい側にあるレストランが揺れた。すると、ゴーゴーと言う音が広場を埋め尽くしたのちに、勢いよく地面が踊り始め、目の前の景色が十五度弱傾いた。私は屋内に避難するわけでもなく、上から落ちてくるものと言えば鳩の糞ぐらいのため、ただ椅子に座ったまま両方の肘掛けを強く握った。花屋の新入りは初めてのことに屋内で叫んでいるようだったが、ドアが閉まっており何も聞こえてこなかった。電車は左右に大きく揺れ、あともう少しのところで横転しそうだったが、乗車する人たちによる素早い小走りの芸当で元の位置へと着地した。しばらくすると揺れが収まり、電車のカンカンカンという音とともに広場全体が一斉に停めていた息を吹き返した。私も用が済んだので新聞とパイプを持って家の中へと戻った。
家の中は眼鏡のレンズや縁が散乱しており、それぞれに人名の入ったタグが付けられていた。私は街に唯一ある眼鏡の修理屋なのだが、おかしなことに眼鏡屋が一つもなかった。どこの店も街の地震でレンズが割れてしまうために店仕舞いしてしまったのだ。こうして私の修理屋だけが街に残り、人々は眼鏡が壊れると私の店へと現れた。私の店はレンズの取り替えから加工、メッキ塗装までやっていた。地震のせいで眼鏡が壊れることは日常茶飯事だった。それ以外にも陶器の修理屋や、リフォーム業者などの他の壊れ物を扱った商売で生計を立てている者もいた。私の店の床にはクッション材を敷いており、預かっているレンズやら縁やらが壊れる心配はなかった。しかし、毎日の地震で眼鏡のパーツはあらゆるところへと移動し、整理しようにもほとんどが作業中のために、毎度落ちたレンズと部屋の隅に飛んだ縁とをまとめて机に戻しておくことしかできなかった。その分、すべてのパーツに人名の入ったタグをつけたことでだいぶ仕事の能率が良くなった。
ある日、店を閉める間際に玄関の呼鈴が鳴った。こんな遅くにやって来るなど遠慮のないやつだと嫌々ながら店の外に出ると、私と同じ歳ぐらいの年寄りが待ちくたびれた様子で玄関の椅子に腰掛けていた。私はその老人に声をかけると、すぐに立ち上がり悲しそうな目をこちらに向け言った。
「こんな遅くにすみません。しかし、どうしてもお願いがありまして」
「眼鏡の修理ですか?」
「はい」
私は一瞬その男の依頼を断ろうと思ったが、いかにも悲しそうな目つきでこちらを見てくるので、仕方なく店の中に入るよう促した。
「ありがとうございます。それともう一つお願いがあるのですが」
「なんだね」
「それ以外に私眼鏡を持ってなくて。つまり、今すぐに直していただかないと家に帰れないのです」
「なんだって?今何時だと思ってるんだい?」
「すみません」
眼鏡には一筋の亀裂が入っており、直すには1週間というところだった。
「申し訳ないが、10日ばかりはかかる。今日は帰ってくれ」
「しかし、実は明日に孫娘の結婚式が控えてまして」
「なんだって?それを早く言いなさい」
「はい、申し訳ございません」
「さっきも言ったが修理には10日ばかりはかかる。だが見たところ、わしの眼鏡とさほど形も度数も変わらないようだ」
「というと?」
「だから、わしのを貸してやると言ってるんだ」
「本当ですか!ありがとうございます。恩に着ます」
私は自分の眼鏡を男に渡すと、亀裂の入った眼鏡を代わりにかけた。
右側の奥から亀裂が一本入っているようだった。
「どうだね。問題なさそうかね」
「はい。何もかもはっきりと見えます。ありがとうございます。拝借料はいくらでしょうか?」
「そんなものはいいからもう帰ってくれ」
「わかりました。本当にありがとうございます」
と言って老人は扉を開けて出て行った。私は男の後に続いて店の看板を裏返してから家の中へと戻った。とんだ難事だったと思いながら、残りの修理作業を亀裂の入った眼鏡でやっとのこと終えると、一日の疲れが一挙に全身を襲いそのまま眠りについてしまった。
翌日、目が覚めると時刻はすでに12時を指していた。目覚ましをつけずに寝てしまったことへの罪悪感を抱きながらも、私は慌ててパイプを手に持ち、玄関の前に置かれた新聞紙を拾い上げてから椅子に座った。広場はいつも通り活気に溢れており、犬は市場の周りを駆け回っていた。時計台の針が12時を過ぎた頃、花屋の新入りが突然外に飛び出し私の方をじっくりと観察するように見ては店頭に並んだ花を急いで店の中にしまい始めた。そろそろだと思いながら、路面電車が来るのを待っていると、カンカンカンという音はせず、犬は依然として市場の周りを走り回り、レストランのパラソルも開いた状態で日が照り続けていた。そしてとうとう時計の針が12時5分を指した時、いつもの大地の踊りはやってこなかった。私は今まで一度たりともそれを逃したことがなかっただけに、何も起こらなかったことに動揺を隠せなかった。同じく花屋の新入りも店の外に出てきては揺れが来なかったことに驚いている様子だった。しかし、なぜあの花屋以外の市場やレストランは揺れが来ないことを知っていたのかと疑問に思いながら、ふと時計台の方を見やった。すると突然カンコンカンコンとチャペルの鐘の音が街中に響き渡った。私はその時昨日の老人との出来事を思い出し眼鏡を外した。
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