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伝わる言葉は肉体で思考し、いのちのやりとりから生まれる

貧しかった夫は、12歳で自分で鶏を絞めて食べていたといいます。魚を捌くのと同じ、胡瓜を切るのと同じ。いのち、とか考えてなかった、ただ食べ物だったそうです。

彼は鴨、鹿、猪、熊といったジビエを好み、猟師になるにはどうしたらよいかネット検索したこともあります。映像で見た猟師は、山を走り回っていて走る役ならできると。

まちがってました。猟師は体力はもちろん大事ですが、待つこと、探すこと、情報収集、忍耐力が必要だと本書に書かれています。

アロハで猟師、はじめました   近藤康太郎

東京渋谷育ちの新聞記者でもある著者が、長崎県で米を作り害獣対策として猟師になったドキュメントです。

ただの猟師のお話しではありません。文学的要素や資本主義のからくり、生きること、ルソーの『人間不平等起源論』や、大岡昇平の『俘虜記』等から哲学的な考察が展開されています。

弾があたっても致命傷にならないまだ生きている鴨は、必死で逃げるといいます。罠にかかった鹿も罠を外そうとしてもがき、ありえない形の足になりそれだけでも、死へ導かれてしまうのに。

動物は、生きる意味など知らない。とにかく、死から逃げる。

新聞に猟師の記事をあげると、ツィッターで「ゲーム感覚、ふざけた記事」と批判があったそうです。それに対して「誤読の自由はあるが頭の中で考えた貧困な想像」「現場の凄惨を甘く見ている」といっています。

わたしが、著者に同じ匂いを嗅ぎとったのは肉体で考えるということです。

私は、車の免許を持ってません。車を運転できる人を尊敬してますし、助手席で、運転に関して批判はしません。

自分がやったことがないこと、できないこと、想像はしますがそのことで公の場で批判はしません。

ワールドカップサッカーに感動するのは、彼らが肉体で思考するからではないでしょうか。

生きるために食っているのではない。食うならば生きる。殺す以上は生きるのだ。

伝わる言葉って、頭だけでなく肉体も必要なのだと思いました。

著者も彼の師匠も、ほとんどカネは使わず自給自足及び、贈与交換によって生活の多くをまかなっています。

その贈与とは、いのちです。菜食主義の方でもいのちをいただいてます。

彼らのいのちのように、見返りを求めずに贈与できるものはわたしにはありません。

食べる、ものを口に入れそれが血となり肉となる以上、生きることは必須なんだなと改めて思いました。