
読み方にもやさしさを
小説の読み方は自由で、人それぞれ違うし、ひとりの人物でも読んだときの年齢や、そのときの状況でも違って何度も読んでも感じ方が違うというのが、再読のおもしろさだ。
朝日新聞の「文芸時評」の記述をめぐり桜庭一樹さんから、記事が作品の内容と違うという趣旨の指摘があり、文芸票筆者鴻巣友季子さんと桜庭さんの見解を興味深く読んだ(2021/9/7)
桜庭さんは、読み方は読者の自由だけどあらすじと解釈は区別しなければならないとあり、鴻巣さんは、作品に創造的余白がある、読書の数だけストーリーがあると書かれていた。
ウェブ版は、修正され「わたしはそのように読んだ」となったという。
鴻巣さんの解釈で、桜庭さんを傷つけてしまっている。
私も気軽に備忘録的に「読書感想文」を書いているけど、誰かを傷つけてしまっている場合もあるかもしれない、と反省させられた。わたしは、そう思うけど、あなたはどう、と読み方にも余白と優しさが必要なんだなと思った。
嵐が丘 E・ブロンテ
その鴻巣さんの翻訳の嵐が丘。少女時代から何度も読んで、鴻巣さんのも2度目だ。1度目は翻訳に違和感があった。あれ?嵐が丘ってこんなに田舎言葉で乱暴だったんだっけ?と。
恋愛小説っていったら、コレ!とず~っと思っていた。ゴーストになっても愛し続け、求め続ける。愛ゆえの復讐。中学生、高校生の頃からずっとキャサリンとヒースクリフの激しさが好きだった。むき出しで粗野で荒々しく野生的な恋。激しいものがいいと思っていた。静かな穏やかな恋愛を知らなかったあの頃。ジェットコースターのような恋が、恋愛だと思っていたあの頃。
久しぶりに読んだ「嵐が丘」。あれ?これって?恋愛小説じゃない?復讐もの?ヒースクリフの復讐の凄まじさが強烈だった。愛ゆえの復讐じゃなかったっけ?あまり愛が見えない。復讐っていうかただの意地悪だ。もちろん復讐は大好きなテーマ。愛と復讐なんて、ドラマチックで大好き。
だけど、華麗なる復讐とは違う。陰湿な虐めのような復讐。ヒースクリフの悪役がすさまじい。
教育をうけさせない、言葉遣いを粗野にする、っていう復讐は残酷だなと思った。
心と身体を病み、死に逝くキャサリンもすさまじい。狂気だ。ヒースクリフも激しく狂う。この激しさが恋だと思っていた。でもなんか違う。大人の恋愛じゃない。肉欲がないからかな。幼馴染、兄妹、遊び友だちって感じだ。なぜか恋愛という感じが伝わってこなかった。子どもが喧嘩して、仕返しをしている。かなりしつこい仕返し。
あとがきで、鴻巣さんはひとつの読み方におさまるものではなく、ひとつのジャンルで括りきれるものではない、と書いている。
恋愛小説の要素もあれば、家庭小説でもあり、ゴシックファンタジーの匂いもするし、2家3代にわたるサーガあるいは復讐劇にも読めるし、現代風にいえば心理ホラーや心理サスペンスの色をおびる部分すらある。コメディの性質もあるとわたしは思っている。
コメディ。語りてのネリーがこっけいな部分もあり、ジョウゼフもある意味おかしみがある。
キャサリンもヒースクリフもエネルギーがありすぎたのかもしれない。ゴーストになってから結ばれる、というのはやはり哀しい。
愛することも、復讐することもエネルギーと時間がいることなんだなと思った。
愛があるからの復讐。愛のない復讐はもっと怖い。