スピ系を うさんくさく思う私が、しかし「これは使える」と感じていること
こんにちは。
超リアリストのアサです。
私は「神様」の存在を、ほぼ信じていない。
「ほぼ」と書いてしまうあたり、その存在を逆に意識しているのかもしれない。
ときどき「神様――!!」と祈り、ときどき「神様のクソ野郎ーー!!」と悪態をついている。
けっきょく神様は、いつも私のそばにおる(笑)
そんないいかげんな私であるが、
スピリチュアル界隈で言われている「あるあるフレーズ」に対し、
「けっ!!」と思いつつ、「そう考えるのもアリかもですね」と思える箇所があるので、紹介してみよう。
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スピリチュアル界隈の「あるあるフレーズ」
これらのフレーズに対し、
「そんなわきゃ、ないじゃん♡」といつも思っている(笑)
生まれてすぐ、何かの疾患を抱え、いわゆる「スパゲッティ状態」になってしまう赤ちゃんは、前世で「我は生まれてすぐに、痛くて苦しい思いをするぞ!」と思って、病気になることを選択して生まれてきた……はずない。
そしてその赤ちゃんが亡くなった場合、そのご両親は、前世で「自分はわが子を失うという体験を味わうぞ!」とストーリーを描いて生まれてきた……はずない。
……とまあ、こんな理由で、「そんなわきゃ、ないじゃん♡」と判断しているわけである。
しかし部分的に、「案外バカにできない」とも思っている。
「前世でストーリーを決めて生まれてきた」という言い方は解せないが、仮にそのように考えてみることによって、「何かの困難を、外側のせいにして嘆き続ける、不平不満を言い続ける」という悪循環から、逃れられるように思うのだ。
自分の人生を生きる上での「責任」や「覚悟」とでも言い換えればよいだろうか。
自分の人生は、自分で選択し、決断し、その結果に責任をとって生きるほかない。
この、至極当たり前の、しかし一方で「案外むずかしい境地」に至る道筋にもなり得ると思うのだ、「ストーリーを選んで生まれてきた」という考え方が。
あなたの人生に降り注ぐ「あれやこれやの困難」をどう受け止め、どう意味をつけるのかを決めるのは、あなたであると。
この考え方は、ナチス収容所を体験した精神科医のフランクルの考えに通じると思うのです。
収容所の過酷な環境下で、絶望せずに明日を見つめたフランクル。
状況に絶望した人々が「毒ガスで殺される」のではなく、「生きる気力を亡くして死ぬ」のを目の当たりにしてきた彼が
さあ、この過酷な状況で、自分はどのような心持ちで生きることを選択するのか?
人生=運命=神様から「生きる意味を問われている」と考えた。
カッコよすぎるぞ、フランクルおじさん!!
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そして、もう一歩踏み込んで、話をややこしくしてみよう。
みなさんは「ウィークネス・フォビア」いう造語をご存知だろうか?
「弱者嫌悪」と訳される。
弱さに対する嫌悪と、弱いと判定されてはならないという強迫観念のことを指す言葉である。
私は、「自分の人生は、まるごと自分の責任である」と心に決めるとき、この「ウィークネス・フォビア」が発動していないかも、同時に注意しておく必要があると思っている。
つまり、自分の「弱さ」「情けなさ」を、「ダメだぞ!」と否定し、「誰にも頼っちゃいかん、社会のせいにしちゃいかん! 絶対に迷惑を掛けちゃいかん!」と頑なになることもまた、バランスが悪いと感じるのである。
弱者嫌悪の人は、自らを弱者であると主張する人を見かけると、怒り出す習性を持っている。自分の中の「弱さ」を認められないから、人の弱さを見て心がざわつくのだろう。
自分の人生はまるごと自分の責任であるが、同時に、適切に人や社会に頼り、甘え、時に迷惑を掛けながら生きてゆく。
このふたつは、矛盾することなく並立する。
この絶妙なバランス感覚こそが、生きてゆく上の「柔軟さ」であろうと思っている。適切に他者に寄りかかることもまた、「強さ」にカウントされるであろう。
そんなバランスを、わたし自身も探っている最中である。
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話が逸れてしまった。
スピリチュアルの話である。
私は宇宙のことなど、ほぼ何も知らないに等しいから、「神様なんか絶対いない」「魂なんてあるもんか」と断言はできないと思っている。
「自分が感じられない」からと言って「全否定」するのもまた、おかしな話だ。
最近は、量子力学なる「人間が感知することはできないが、確かにあると認めざるを得ない状況が、この世界にある」という、むずかしい物理学の研究も進んできているようである。