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ASD、ADHDと人形表現についてーvol.1

発達障害自助グループの文学研究者、横道誠さんの著書「みんな水の中」を読みました。

*これは、横道誠さんが書いていらしたASDADHDの記述を読んで、共感するところがあったので自己理解と今後のための記録として残しておくための記事です。(vol.2につづく予定)*

わたしは小さな頃からコミュニケーションへの苦手意識があり、人に関心を持ちづらかったり逆に自意識過剰の傾向が強かったりもして、集団で何かをするということや自分を表現することに自信がなく、恐怖を抱えていました。

脳のキャパシティに余分なものが入ってきやすいのか、毎日の身支度や整理整頓、日常の細々としたものを習慣づけることさえできず、情報量の多い外の世界から逃れるために自分の身体が過敏になり。。
(座っていると圧迫されて痺れを感じる、じっとしていられないのにじっとしなきゃいけない、目の前にある自分の鼻や腕の黒子がめざわり、脇から血が吹き出すかもしれないなどという想像)
注意散漫で集中することに困難を抱えていました。

おまけに人と会うときはいつも緊張してIBSになり、一言も喋れないほど無口でした。
(今も気を抜くと💦)

逆に文章になると長文になってしまったり、距離感がわからずに長文の自己紹介手紙を送ってしまったりします。
いまnoteで自分のことを長々と書いているのも。。横道さんの本に書いてあった「自分の感情を把握したいがために、言葉数を費やして現実理解を得ようとしている可能性がある。」(p.213参照)という描写になるほどと思ったり。

多くのASD者は多弁に、一部のASD者は選択性緘黙に悩んでいるようで、また、感覚過敏感覚鈍麻もASDに特徴的だそうです。(p.90、p.210-213 参照)

ASDに特徴的だとされるアレキシサイミア(失感情症)。(p.212-213ほか参照)
私はそれが原因だったのか、自分の感情を自覚し表現することもなくて、感情表現も乏しくて、友達を作ろうとも作りたいとも思っていませんでした。

人との対話に際して感情的な反応を表現しづらくロボットのようになってしまうことは悩みですね。
(今思えば、人間関係の予測不可能さからの回避、傷つけ傷つけられることへの防衛本能アレキシサイミア感覚鈍麻に繋がっていたようにも思います。)

ですから、学生時代はただ、勉強はそこそこできるおとなしい生徒として、大人の期待に答えられるようがんばっていたのですが、真面目で模範的な生徒という見られ方(なぜか💦)に対する違和感、プレッシャーを感じていました。(今思えば)
やらなきゃいけないもの、やらないと失望されるという不安から定期テストにいのちをかけ、一度決めたそのこだわりには執着しました。
(のちに崩壊しますが)

そして高校2〜3年の時には拒食過食を経験し、学生時代は全く楽しくありませんでした。
食べないことで自分を肯定しようとしたり、逆に不安で常に食べてしまったり。
一種の自傷行為こだわり行動が引き起こしたものだったのかもしれません。
(食への依存傾向は、自分の中の課題です)

成長していく中でASDADHD社交不安障害アダルトチルドレンについてきくようになって、
対人不安はあるのに未知のものに対する冒険心と気になるものに対する探究心はあるという性質から、幼い頃から好きだった人形について研究したり、人形劇や演劇のワークショップでコミュニケーションをとろうとしたり、本を読んだり日記を書くことで自分を癒せるようになってきました。

それでもなかなか人と関わることにリラックスできませんでしたが、大人になってからやっと、にんぎょうのおかげでちょっとずつ自分のことを解放できて、表現するのを許せて、感情も文章で記述するようになり、ほんとにちょっとずつ人と繋がることもできました。(まだ全然ですが)

にんぎょう(人形、ぬいぐるみ)にこだわっているのは、私にとって、にんぎょうについて考えることが多様な自分や人を知り肯定し生きることに繋がるという感覚が本能的にあるからだと思います。

何があってもにんぎょうだけは裏切らない、そう信じられれば人とも関われる気がするのです。

ぎゅ。だいじょうぶ。

結局、本を読んで自分がASDやADHDだとわかった、というわけではないのですが、それらにみられる特徴が自分にも現れていたと感じられること(その他の項目でも。ASDとADHDの併存傾向がつよい。)、生きづらさを感じたことがあったけどにんぎょうでそれを乗り越えようとしていることを認識したことは確かです。

*にんぎょう(人形、ぬいぐるみ)がASDやADHDの人たちにとって安心な表現言語になるという普遍的な可能性については、また改めて書きたい。(長くなりそうなので)*

横道誠さんは、発達障害にみられる特徴が障害ではなく「脳の多様性」として語られることを望んでいました。
そして、定形発達者であろうと発達障害者であろうと脳の多様性を生きていることは間違いないと。

わたしは人間の友達(と呼べる人)はほぼいないし、正社員・フルタイムでこれから働ける気もしないし、結婚や子育ての道も難しすぎるかもしれません。

特性上、心から人と繋がることは不可能なのかもしれない。。。そう思うことさえありますが、プライド高く自分に厳しくがんじがらめになって何も表現できなかった昔に比べたら、自分で生き方を。。制限はあるとしても、誰かの正解に合わせるのではなく自分が正しいと思うこと、好きなことをしていこうとしている今の自分のほうが、よっぽど信頼できるし、幸せです。

自分なりの幸せや美学を追求すればするほど、離れてく人や分かり合えなさが増してくる人もいるかもしれない。でも逆に、深く繋がれる人とも出会えるかもかもしれなくて。。

自分の心とペースを優先するようになって、ほとんど感じる余裕がなかった心の傷や感情の動きも自覚できるようになって、前よりさびしがりやになったけど、分かろうとしてくれる人もちょっといて、自分の世界(人形劇団 シュールクリーム一座)を知ることで前より生きやすくはなってきている。

孤独だから、根源的なものとか、個人を超えた魂とか、そういうものをなんとかして理解しようとするようにもなったし。
(超越的なものを求めやすいASD的な特徴。にんぎょうにこだわる所以でもある?後日記載。)

それでもこの世界には、日々生きづらさと戦っているたくさんの人がいて、鬱っぽくなる人、どうしたらいなくなるのかなって思うと、世界平和が実現しない限り、今の社会システムが変わらない限り、みんなが幸せを感じるのは難しいのかなとも思ってしまう。(完全な幸せなんてものは、ないのかな)

ここで発信するのはまだ勇気が出ないことや自分でもわかりきれていない曖昧な特性はあるけど、いつか人形と自分自身(人形劇団 シュールクリーム一座)を媒体として、幸せについて考えたことや、生きづらさ、研究したことをまとめてかたちにすることができたら、という夢もあります。

それが、脳の多様性を持っているシュールクリーム一座にできることかもしれないし、新しい生き方への示唆を促すことにだってなるかもしれない。

そのためには、好きなことを貫くこだわりと優しさ、かわいさを持たなきゃね!笑

人形劇団 シュールクリーム一座、まだまだ成長段階!
えいえいおーーっ。

人形劇団 シュールクリーム一座 集合写真

⚠︎数人(ぬい)のにんぎょうとひとりの人間によって形成された「人形劇団 シュールクリーム一座」は、統一的人(形)格のもろさゆえ文体も日々変わりやすいですが、noteではそのままお伝えします。


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