【歴史エッセイ】名家のあれこれ③─名家の記録─
ニュースを見ていて、偉人の手紙や日記などが出てきたという話を時々耳にすることがある。少し前だと坂本龍馬が由利公正にあてた手紙や、太宰治が尊敬している芥川龍之介の似顔絵を書いたノートが有名だろう。
龍馬が由利公正に当てたものは、松平春嶽上洛への感謝と由利公正の兄の上洛を急ぐものだ。松平春嶽の上洛が心強い、とか、由利公正の兄の上洛が遅れると新国家の建設が遅れるからどうか早くしてほしいといった、越前藩への感謝と由利公正への信頼がわかるものとなっている。
太宰治のノートの場合は、芥川への異常と言えるほどの愛を感じた。頬がげっそりこけた病的な感じが、その異常さをさらに際立たせている。
手紙や日記からわかることは、偉人が生前どんなことを考えたり感じたりしていたのか、またどういうものが好きだったかだろう。そのため、歴史や文学史を調べている人間にとって、そうしたものはとても貴重な資料となっている。
また、その他にも、地域や家の伝承について書かれたもの、寺社と権力者のやり取り、朝廷や院、公家、大名から出されたものなど、古い記録にはいろいろなものがある。
寺社や朝廷、院、公家、大名関係は歴史的にも重要な意味合いがあるので、国史や郷土史の史料にも載っていることが多い。特に重要なものは、中学や高校の日本史の教科書や資料集にも載っている。
3回目はそうした記録の話をしようと思う。
仏壇の前に曽祖父が生家に送った手紙が額縁に飾られている。内容は、
というものだった。
私の曽祖父の生年はよくわかっていない。ただ、わかっていることは、血を引いていないこと、戦死を遂げているということだ。年齢に関してはおそらく早くて明治後期の生まれと推察される。
血を引いていないことについては、跡継ぎが幼少だったので、隣家から養子として迎えられたためと伝えられている。
戦死を遂げていることについては、おそらく第二次世界大戦かと思われる。戦死した場所については、東南アジアやオセアニアなのか、満州や内モンゴルなのかよくわかっていない。
「近況を伝える手紙」
本来であれば、靖国神社の遊就館やその近くにある昭和館などに寄贈されていてもおかしくない史料。なぜそれが民家の仏壇の額縁に飾られているのか?
それは、
「遺影が無かったから」
だそうだ。
曽祖父の戦死後、家の誰かが曽祖父の遺影を求めに本家に来たことがあった。その際隣家の人が、
「ごめんなさい。〇〇の写真が無くて……。その代わりといっては難ですが、兵隊に行ってきたときに送ってくれたこの手紙で勘弁してもらえませんでしょうか」
といって、曾祖父の遺影の代わりにあげたものらしい。以来遺影の代わりに飾っているそうだ。
この手紙が、記録のない曽祖父の形見でありかつ生きた唯一の証となっている。
分家には天皇から送られた手紙があるという。
詳しい内容は不明だが、おそらくは感状か何かだろう。もし鎌倉や南北朝のころから私の家があったとするなら、綸旨や宣旨の可能性もあり得る。
前者であったとするならば、いつの時代の天皇か特定するのは実物を見ないと難しい。そして、内容自体どんなものなのかによって、史料の価値は大きく変わってくることだろう。
後者の場合は、建武の親政をやっていたときに、綸旨が乱発したことがあったからだ。ただ、この場合は、当時偽綸旨が多かったことを考えると、偽物である可能性も高いと思われる。宣旨であった場合はおそらく官位関係と思われる。
いずれにせよ、現物を見たことがないので、何時代の何という天皇が出したものなのかはよくわからない。それに伝承は時を経るごとに変容していくので、感状や綸旨ではなく、本当は院宣などであったということも十分考えられることだ。また、本物が消失していて立証の手立てがないこと、そもそもその話がデマかでっち上げの可能性も考えられる。
それでも、もし仮にこの事実が本当であったとしたら、子孫としてとても誇らしく感じる。
史料としての価値があるものから、いつの時代のものかわからない真偽不明なものまで、名家には様々な記録が残っている。私の出た家の場合、紹介した二つの記録以外にも、たくさんの記録が眠っていることは確かだろう。まだ出てきていないだけで。
そうしたものが、いつか日の目を浴びる日が来るようにとひそかに心の奥底で祈っている。
【前の話】
【参考文献】
弘前大学附属図書館『太宰治 修身ノート』(http://www.ul.hirosaki-u.ac.jp/collection/rare/note3/)2023年1月29日閲覧
『日本経済新聞』「龍馬暗殺5日前の書状 福井藩重臣宛て、3月に公開」(https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG13H1B_T10C17A1CR0000/)(2017)2023年1月28日閲覧
【前の話】
【関連】