セリーヌ・シアマ監督 『秘密の森の、その向こう』 : 〈秘密の森の、その向こう〉とは 何か。
映画評:セリーヌ・シアマ監督『秘密の森の、その向こう』
とても良い映画だった。何が良かったのかというと、
(1)観ていて楽しい。
(2)絵(作り)が美しい。
(3)この映画の「不思議な感じ」は何なのだろうかと、考えるべき「余白」がある。
といったところだろうか。
まずは「あらすじ」と「予告編映像」をご紹介しよう。
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上に挙げた、この映画の「3つの美点」について、順に説明しよう。
まず「(1)観ていて楽しい。」について。
上の「あらすじ」と「予告編」だけを見ると、ちょっと「重い(辛気くさい)」映画なのではないかという印象を受けるかもしれないが、実際には、そんなことはない。
設定自体は、そうした「家族の危機」的なものではあるけれど、実際の映画は、主人公のネリーが、森の中で、子供の頃の母親マリオンと出会い、一緒に遊びながら親友になっていく様子を描いた部分が中心であり、その部分がとても愛らしく微笑ましいものだから、全体としては、決して「暗い」映画にはなっていないのだ。
「(2)絵(作り)が美しい。」について。
本作で描かれる「森」はもちろんのこと、「森」と並んで物語の舞台として大きな位置を占める「おばあちゃんの家」も、抑えた色調ながらとても美しく、また二人の少女の衣装も含めて、映画全体の色彩設計が、抜群に「オシャレ」なのだ。
私のような「オシャレ」に無頓着な人間でも、この映画の「オシャレな美しさ」が、単なる「綺麗」ではなく、フランス的な「エスプリ」の利いた、抑えた「美しさ」だと、そう感心させられるのだから、これは相当なものである。
映画を見ていて、その「絵作り」の美しさに感心させられたのは、チャン・ツィイーを一躍、世界的なスターダムに押し上げた、チャン・イーモウ(張芸謀)監督の代表作『初恋のきた道』(1999年)以来ではないかとさえ思う。
「(3)この映画の「不思議な感じ」は何なのだろうかと、考えるべき「余白」がある。」について。
私のとって最も肝心なのが、この三点目。
「楽しい」映画や「美しい」映画というだけなら、私には物足りなかっただろう。だが、この映画には「それ以上の何か」がある。
しかもそれは、「表面的なテーマ」には還元することのできない、ある意味では、監督自身が、意識することもできなかった(したがって、インタビューなどで語ることのできなかった)「何か」なのだ。
「予告編映像」のナレーションにも、
とあるとおりで、この映画で語られている「内容的テーマ」ということでは、それは、この短い言葉に尽きると言ってもいいし、この線で贅言を重ねるような批評は、あまりにも安直だ。
したがって、私がこの映画について、「個人的」に興味が持て、論じるにあたいすると感じるのは、この映画全体に漂う「独特の優しい空気」とは、どういう性質のものか、という点である。
「あらすじ」にもあるように、本作は、母方の祖母が亡くなって、両親とともに「おばあちゃんの家」を片づけにきた主人公ネリーが、翌朝、その家から母親が黙って姿を消した後、裏手の森で、自分と同じ8歳の母親と出会う、という「不思議な体験」を中心に展開する。
で、この「不思議な現象」の性質を、どう理解するのが、この作品を適切に評価するためのポイントだと、私には感じられた。
例えばこれを、「SF」的な言葉で「タイムトラベル」と表現すると、やはり違和感がある。たしかに、そこでは奇妙な「時間のねじれ」が描かれているのだが、本作のそれは、「SF」的に「論理的・合理的」なものではない、と感じられるからだ。
では、「ファンタジー」かというと、そこまで「ゆるい」わけでもない。ここには、いわゆる「論理的・合理的」なものではないけれど、それでも、何らかの「強い必然性」が働いている。
それでは、それは「寓意」的なものかというと、これもちょっと違う。本作に描かれているのは、そんなに「抽象的」なものではなく、もっとたしかな「手ざわり」のあるものなのだ。
「SF」的でもなければ「ファンタジー」的でもない。かと言って、「寓意」を込めた「寓話」的な作品でもないとしたら、この作品における「独特の空気」とは、何なのだろうか?
それに一番近いものを、私は「夢」だと思う。
つまり、「夢」の中では「(合理的に)何でも起こりうる」。
例えば、死んだ母親とでも、若い頃の母親でもと会うことができる。また、姿形が違っても、その人がその人だと信じることもできる。無論、時間や空間など、変幻自在につながりながら、そこに違和感を覚えることもないだろう。
一一このように、「夢」には、独自の「合理性」が働いており、「夢」を見ている私たちは、それを「リアル」なものと感じ、その「空気」や「肌ざわり」さえ、ごく自然に感じ取っているのだ。
たとえば、夢の中で、死んだ母親や、あるいは旧友、あるいは昔の恋人などに遭い、とても幸せな気分になって、目を覚ましたとしよう。
そのとき私たちは、言うに言われぬ「懐かしさ」や「穏やかな感動」とともに、一種の「励まし」にも似たものを感じるのではないか。
「ああ、あの人が、夢に出てきて励ましてくれたのだな」というような、非合理的な理解ではあっても、感情の論理としては、それが最も「しっくりと来る」ような感覚である。
そんな「独特な感覚」がこの映画にはあって、それは類似の映画でも、めったに得られないものなのだ。
シアマ監督はインタビューに応えて、影響を受けた作家や作品として、宮崎駿の『となりのトトロ』や、細田守の『おおかみこどもの雨と雪』、あるいは、ロバート・ゼメキスの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などを挙げているが、SF的な仕掛けや「若い頃の母親と遭う」という共通点での『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は別にして、シアマ監督が宮崎駿や細田守の名を挙げたのは、決して日本人向けのリップサービスではないだろう。
本作は、宮崎駿の『となりのトトロ』とは「子供と森の不思議」という部分で重なるし、言及はされていなかったが「死と再生」というテーマでは『千と千尋の神隠し』に通じるものがあった。また「子供」への愛情と「成長へのうながし」という点では、細田守の諸作と重なる部分が多々あるとも言えるだろう。一一だが、本作『秘密の森の、その向こう』の「夢」性は、それらのいずれよりも、つまり『千と千尋』よりも、より濃厚であり、本質的なものであったと私は思う。
この違いは何なのか。何に由来するものなのか?
思うに、宮崎駿にしろ細田守にしろ、あるいはロバート・ゼメキスしろ、作中に描いたそうした「特殊体験」を、ある種の「通過儀礼」として、いわば「理屈」で考えている部分がどこかにあると思うし、それが私自身を含めた男性一般の傾向でもあるわけなのだが、セリーヌ・シアマ監督の場合は、そうしたものとはちょっと違って、もっと「実感」的なところから出てきたものだからこそ、「空気」や「肌ざわり」が、より濃厚なのではないだろうか。
これを、シアマ監督の「女性性」や「レズビアン性」に還元するつもりはないけれど、それが無関係だとも、私は思わない。
いずれにしろ、この「独特の空気感」を絵にできる才能は稀有なものだと思うし、その点で、今後にも期待できる監督だと、私は高く評価したいのである。
(2022年10月7日)
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