ロバート・ロドリゲス監督 『ドミノ』 : ホンモノとニセモノ
映画評:ロバート・ロドリゲス監督『ドミノ』(2023年・アメリカ映画)
「クリストファー・ノーラン+フィリップ・K・ディック÷3=ドミノ」といったところだろうか。
「÷2」ではないのは確かだが、「÷4」というのでは厳しすぎる。だから「÷3」ということにしたのだが、厳密に言えば「÷3・5」とすべきなのかもしれない。
「あらすじ」は、次のようなものである。
この作品は、2つの点で、私の好みだった。
(1)催眠術で人をあやつる敵との闘い。
(2)自分が見ているものが現実だという保証のない世界での闘い。
といったことだ。
(1)について言えば、例えば私は、黒沢清監督の『CURE』(1997年)が大好きなのだが、一時は流行ったとも言えるであろう、「催眠術犯罪もの」の面白さは、「誰も信じられない」という「サスペンス」性にあると思う。つまり、自分以外のすべての人が、敵か味方かわからない。
普通のサスペンスものであれば、「悪人が善人を装っている」とか「善人が悪人を装っていた」とかであり、「装って」こそはいても、完全に「変わってしまう」わけではないから、「キャラクターの一貫性」という原理において、ある程度は、誰が善玉で、誰が悪玉なのかが推測ができるし、その点で、観客には、一定の「安心感」が醸成され得る。
ところが、(現実の催眠術ではなく)こうした「催眠術もの」では、本当の善人が、次の瞬間には、ころりと悪人にもなるし、殺人鬼にもなる。長年仲睦まじく暮らしてきた夫婦の、夫や妻が、あるいは無垢な子供ですら、次の瞬間には、笑いながら銃や刃物を突きつけてくるかもしれない。
つまり、信じられるのは「自分だけ」という、孤立無縁に置かれるから、おのずと気の抜けない、緊張感あるサスペンス作品になるのである。
(2)は、(1)に、さらに「自分自身の目さえ信じられない」という要素を付け加わる。
周囲の誰も信じられないだけではなく、自分自身の目さえ信じられなくなるのだ。
だが、そんな何の保証もない「悪夢」のような世界だからこそ、人はそこからの脱出を目指さないわけにはいかない。
しかし、こうした場合にも唯一信じられるものがある。それは、自分の「知性」だ。
自分の「目」に代表される「外部認識(入力情報)」は操られうるが、少なくとも「映画における催眠術」は、主人公の「意志」そのものを、丸ごとコントロールできるというわけではない。つまり「自由意志」には手をつけられないのだ。
どういうことかというと、「映画の中の催眠術」は、主人公らに対し、「誤った外部情報」を与え、相手の「認識を歪める」ことにより「判断を誤らせる」。そうしたかたちで、主人公をさえ「誘導的にコントロールする」ことはできても、主人公が「私が見ている、この現実は、偽物なのかもしれない」と疑う、その「メタ認識」までは、思いのままにはできないのである。
そもそも「人間の意識を、完全にコントロールできる催眠術」などというものが可能なのであれば、それに抗うことは、誰にもできないなのだから、すべては「されるがまま、なるようにしかならない」ということになって、「逆転」はあり得ず、娯楽映画として成立しないのである。
これは、現実の「詐欺犯罪」などでもそうで、詐欺師というのは「誤った情報」を狙った獲物(被害者)に与えることで、その相手自身に「その自由意志において、誤った判断をさせる」ことにより、結果として、相手を操るのであって、「これは嘘ですが、この通りにしなさい」と言って、従わせるわけではない。そんなことはできないのだ(例えば、直近の事例では「頂き女子りりちゃん事件」参照)。
だから、現実でもそうだし、本作『ドミノ』でもそうだが、そうした「情報操作」による外部からのコントロールに対しては、誰もが同じ反応を示すとは限らない。
つまり「暗示」や「催眠術」に、かかりやすい人もいれば、比較的かかりにくい人もいる、ということだ。
では、こうした差異がどこから出てくるのかといえば、それは「自己の認識」に対する「自信の度合い」による、と言えるだろう。
まず、自分の「現実認識」に対する「自信の強度が高すぎる」人は、騙さやすい。
どういうことかというと、これは、「認知」とその「判断」の間に、適切な「距離」が保てているか否か、すなわち「認知」と「メタ認知」の「二層構造」を構築し得ているか否か、という問題だ。
平たく言えば、「認知即確信」という「自信過剰」な判断におちいらず、自身の「認知能力」に対し「適度な自己懐疑(自己批評性)」という「距離」を持ち得ているか否か、ということである。
「特殊詐欺」に関する話などでしばしば、被害に遭うのは「自分だけは、絶対に騙されない」という、過度な自信を持っている人だ、と言われるのも、こうしたことからだ。
こうした「自信過剰」の人は、「適度な自己懐疑(自己批評性)」を持っておらず、言うなれば、認識構造が「単層」なため、誤った情報あるいは「偽情報」に対する「みずからの誤認(可能性)」に対し、「ストッパー」が働かない。より正確には、「理性的懐疑」というストッパーを、そもそも構築し得ていない、ということになるのだ。
だから、「催眠術」や「暗示」に対して抵抗できる「主人公」とは、「自分の認識を、適度に疑うことができる人」ということになる。
そしてここで、なぜ「適度」なのかと言えば、「自信過剰」とは逆に、行き過ぎた「自己懐疑」の場合は、それが「自信喪失」となり、そのせいで「判断停止」状態になって、その間隙(心の隙間)を敵(催眠術師)に突かれることになるからである。
つまり、「自己懐疑」や「自己批評性」というのは、なくてはならないものだが、過度であってはならない。
適切な「自己懐疑」とは「自己懐疑にすら、その適切性を懐疑するもの」でなければならず、適切な「自己批評性」とは「自己批評の適切性にも、批評的である」ということなのだ。
要は「強弱両方向での行き過ぎを自己監視する能力」としての「バランス感覚」が必要なのだが、これが「凡人」には難しい。
「凡人」というのは、わかりやすい単純さに、身を委ねてしまいたがるもので、要は、その意味で「意志が弱い」のである。
しかしまた、そんな「非凡な能力=理性の多層多視点性」としての「知性」を備えているからこそ、本作のような「催眠術もの」の主人公は、「ヒーロー」たり得るのだとも言えよう。
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さて、そんなわけで本作『ドミノ』である。
本作は、非常に「よくできている」。「完成度の高い作品」なのだ。一一にもかかわらず、「なるほどね」という感じの「納得」はあっても、「圧倒」されることはない。「圧倒するほどのもの」が無いのだ。
こうなってしまった最大の要因は「新しいものが、何もない」ということであろう。つまり、全体のどこを切って見ても「既視感」があるのだ。どこまで見たことがあるような、聞いたことがあるようなものでしかない。
よく指摘されるように本作は、クリストファー・ノーラン監督が『メメント』『インソムニア』『インセプション』『インターステラー』『TENET テネット』などで、切り口や角度を変えながら何度も探求してきた「世界の多重性・多面性」といったことや、フィリップ・K・ディック原作の映画『トータル・リコール』『スキャナー・ダークリー』などで描かれた「現実と虚構の相互侵襲」的な世界が、いったん形式的に要素還元された上で、スッキリと組み立て直されたような作品なのだ。
したがって、「無駄」がなく、じつにスッキリしており、その意味で完成度も高い。だが、何かが足りない。
何が足りないのかと言えば、ノーラン作品が持っていた「過剰性」や、ディック作品が持っていた「不安」が、この作品には欠けているのだ。
もちろん、娘を誘拐されている主人公は、そのことで「悩んでいる」し、目の前で信じられないことが起こったり、心を許せる相棒の刑事に殺されそうになったりして、何を信じていいのかがわからない不安に襲われはするのだが、しかしそれは「不安です(よ、当然)」という感じの「形式的な感情」、「シナリオ上での感情」や「設定」であって、その「懐疑」や「不安」の描き方自体は、通り一遍なのだ。
だから、作りとしては「よく出来ている」のに、映画としては「絵解き」の域を出ず、作品に厚みがない。
ピカピカに磨き上げられた作品なのだが、持ってみると、それはプラスティック製品の軽さしかなく、ずっしりとした手応えや「存在感」がないのである。
もちろん、この種の作品をあまり観ていない人であれば、その「巧緻な作り」と「完成度」だけで満足できるだろう。その域には達している。
だが、こうした作品を見馴れた者には、本作は「プラスアルファ」が無く、よく出来てはいるが「優等生」の域を出ない、面白みに欠ける作品なのだ。
結局これは、こうした「認識論的不安」に訴える「形式」の作品として、その「形式」の範囲ではよく出来ているものの、それが「存在論的不安」にまで達してはいないからではないだろうか。
この映画を観て、「なるほどね」と思う人はいても、この映画を観て、「では、私が生きている今ここは、本当に現実なのか?」と疑う人はいないだろう。なぜなら、監督自身が、そんな疑いを、まったく持たない、幸福なリアリストだからだ。
言い換えれば、クリストファー・ノーランやフィリップ・K・ディックの作品が、「理屈」ではなく「感情」に訴えてくるのは、彼ら自身が、この「現実」を、完全には信じていないからではないだろうか。
彼らの、そんな「生な感情」が、この種の「形式」を呼び寄せるのと同時に、そこに、こもっているからなのではないか。
つまり、「現実」が「現実」だと信じられるのは、実のところ「見た目」や「手触り」といった「主たる外部情報」ではなく、実のところ、「におい」などの「意識にのぼらない情報」が、そこに加わっているからなのではないか。
クリストファー・ノーランやフィリップ・K・ディックの作品には、「濃厚な体臭」が漂っている。
ところが、本作『ドミノ』には、「オーデコロンのような匂い」しかしないのだ。
しかしそれは、ディックがくり返し描いた「模造品」の臭いなのではないだろうか。
(2023年11月3日)
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