見出し画像

リチャード・ケリー監督 『ドニー・ダーコ』 : 「厨二病」の超心理学

映画評:リチャード・ケリー監督『ドニー・ダーコ』(2001年)

どこでだったかは失念したが、本作が「カルトムービー」だと紹介されていたので、興味を持った。

検索してみると、映画のポスターは、いかにも怪しい「銀色(メタリックシルバー)のドクロうさぎ」の仮面とでも呼ぶべきものが、空を背景に浮かんだものである。
「これは、どう見てもホラーだ」と思って、観ることにした。私は、「傑作」という条件付きながら「B級ホラー」が好きなのである。

本作は「サンダンス映画祭」で観客の話題をさらった作品だというのが、予告編などでの売り文句になっていて、「なるほど」という感じがプンプンする。
「サンダンス映画祭」というのは「低予算で作られた独立系の作品を中心とした映画祭イベント」だからである。

もっとも、そのようにして始まった「サンダンス映画祭」も、そこから有名監督を生み出すに至って、近年ではメジャー色が強まってきたので、本来の目的である低予算の独立系映画をサポートすべく「スラムダンス映画祭」というのが開催されるようになったというのだから、「サンダンス映画祭」の大賞受賞作というのは、決して「B級作品」ということにはならないようだ。

したがって、本作『ドニー・ダーコ』が、「サンダンス映画祭」で観客の話題をさらった作品だというのは、「大賞」や「観客賞」を受賞しないまでも、観客の一部にとても評判が良かった、という程度の話ではないかと思われる。その意味で本作は、正しく「カルトムービー」なのであろう。

 ○ ○ ○

本作の「あらすじ」は、次のとおり。

『1988年、アメリカ・マサチューセッツ州ミドルセックス。ある晩、高校生ドニー・ダーコの前に銀色のウサギが現われる。ドニーはウサギに導かれるようにフラフラと家を出ていく。そして、ウサギから世界の終わりを告げられた。あと28日6時間42分12秒。翌朝、ドニーはゴルフ場で目を覚ます。腕には「28.06.42.12」の文字。帰宅してみるとそこには、ジェット機のエンジンが落下していてドニーの部屋を直撃していた。何がなんだか分からないながら九死に一生を得たドニー。その日から彼の周囲では、不可解な出来事が次々と起こり始めた。』

 (「Yahoo!映画」、『ドニー・ダーコ』紹介ページより)

タイトルの「ドニー・ダーコ」というのは、主人公の少年(高校生)の名前である。

ドニーは「夢遊病」を患っており、精神科医のカウンセリングを受けているのだが、そんな彼は、ある夜、メタリックシルバーの「ドクロうさぎ」の仮面をかぶった人物(?)からの「お告げ」を受ける。あと28日6時間42分12秒で、この世界は滅亡するという、「終末到来」の予告である。

無論、これが夢なのか現実なのかは、ドニー自身にもよくわからないのだが、少なくとも夢遊病によって、翌朝、近隣のゴルフ場で目を覚ました際、彼の腕に黒々と「28.06.42.12」と書かれていたのは、間違いない事実だ。これとて、彼が夢遊病の最中に自分で書いて、忘れているだけなのかも知れない、としてもである。

そんなわけで彼は、終末の到来に半信半疑な中、それまでどおりのスクールライフを送り、その中で転校生の美少女グレッチェンとの出会いといったこともあった反面、近所に住む「キチガイ婆さん」の「毎日何度も郵便受けを確認する」という、なにやら暗示的な行動なども目について、徐々に不穏な雰囲気が高まって行く。

さらにドニーは、ドクロうさぎの夢を見るだけではなく、覚醒中にも、自分や他人の胸から、生きているかのようにユラユラと伸びていく、無重力下での「水の棒のようなもの」を見るようになる。果たしてこれは「投薬の副作用による幻覚」なのか?
(この幻覚は、文章では説明しにくいのだが、ジェームズ・キャメロン監督の『アビス』に登場する、水の帯のような感じのものと思ってもらえばいいかもしれない。無論、CGによる表現だ)。

ドニーは、こうしたいささか不安定な心理状態にありながらも、もとが真面目で頭の良い少年であり、大人たちの言うことを鵜呑みにしないだけの批評性を持っていて、学校の授業で教えられる「紋切り型の正解」や、講演に来た宗教家の、いかにもな「きれいごと」を、衆目の中で批判して、やりこめたりはするのだが、その分、彼は周囲に「情緒不安定」という印象をも与えてしまう。

(息子を心配するドニーの母)

そうこうしているうちにも、ドクロうさぎが予告した「終末の日」は刻一刻と近づいて、ドニーはそれに促されるようにして、夜中に学校に侵入し水道管を破壊して学校を水浸しにし、校庭の奇妙な銅像の頭に斧を叩き込んだりといった、いささか不可解な事件を起こした後、「終末の日」の前夜、ドクロうさぎの「地下室」という言葉に示唆されて、「キチガイ婆さん」の家に、つき合い始めていたグレッチェンとともに侵入し、その地下室を探ろうとする。

だが、そこにたまたま居合わせていた強盗たちに襲われ、表に逃れたところで、グレッチェンは強盗たちの仲間の車で轢き殺されてしまい、ドニーは隠し持っていた父親の拳銃で、強盗犯の一人を射殺してしまう。

一一こんな具合で、この映画は「なにやら不穏なことが進行していく」物語なのだが、その正体はよくわからないし、主人公であるドニーが、なにを考えているのかすらよくわからないまま、ラストの怒涛の展開へと流れ込む作品である。

で、意外なのが、この作品のラストには、意外に「まとまったオチ」のついていることである。

しかし、その「オチ」をバラしてしまうのは、いかにも興ざめだし、この意外に「まとまったオチ」は、それゆえに、ある種の人には、ちょっとしたヒントで、いわゆる「ネタバレ」になってしまうような類のものなので、この映画に興味を持った人は、できれば「予告編」などは見ないほうがいい。けっこう「ネタバレ」になってしまうような煽り文句を語ってしまっているからだ。

で、「オチ」を明かさないまま、この作品を論じるというのは、なかなか難しいのだが、そこを押してあえて言ってしまえば、本作の「オチ」自体は、結構ありがちなもので、さほど驚くには値しない。

言い換えれば、本作で論じるべきなのは、ラストではなく、それまでの「暗くあやしい雰囲気」による「終末」の暗示、の方なのだ。
リチャード・ケリー監督は、この「一風わかった雰囲気」の、一種「難解」と呼んでもいい映画を、「どういうつもりで撮ったのだろうか?」という問題である。

(グレッチェンと映画『死霊のはらわた』を観る。ドニーにしか、ドクロうさぎが見えていない)

この作品、じつは、同監督のオリジナル脚本を映画化したものであり、監督デビュー作である。
また、この作品を撮ったのは、監督の25歳時であり、そこからわかるのは、この作品の「世界観」は、かなりのところ、監督自身の「世界観」を率直に表現したものなのではないか、ということだ。

(リチャード・ケリー監督)

そして、そんな目で本作を見ていくと、ある意味で本作は、決して「難解」な作品ではない、というのがわかってくる。一一どういうことか?

言うなれば、本作は「気真面目な少年ドニーが、偽善にまみれたこの世界を、生まれ変わらせる物語」だと、そうまとめることができるのだ。だからこそ、本作は「暗い」し「難解」かつ「宗教的」と言っても良い雰囲気があるその一方で、物語のラストは、ある種の「自己犠牲的なヒーローもの」の様相を呈してもいたのだ。

つまり、この作品の「世界観」を、ひと言で言えば、「厨二病」的なのである。

この「薄汚れて偽善的な世界」を、ちょっと変わり者だけれども気真面目な少年が、超越的な存在から選ばれて、自己犠牲的なかたちで、世界を「再生」させ、「世界を救う」物語だと、そうまとめることのできる作品なのである。

だから、この作品が、若者を中心にして熱狂的な支持を受けたというのは、むしろ理解しやすいところであろう。
本作を熱狂的に支持した若者たちは、本作に「きわめて深い哲学的な意味」を見て、その「謎解き」に熱中したのであろうし、だからこそ本作は、何度も観なければ、その意味するところを理解できない「リバースムービー」などとも呼ばれたのであろう。

しかし、だからと言って私は、本作について「幽霊の正体見たり枯れ尾花」だと言いたいのではない。

そうではなく、これは若い監督自身が、この世界に感じている「不全感」のようなものを、率直に表現した作品であり、そうであったからこそ、独特に力強い「世界観」を提示できたのではないか、とそう評価しているのだ。

監督が、現実世界に見たものは、青年期特有の「屈折」を経て、およそ「客観性」とは無縁なものであるとは言え、しかし、この作品には「大人になる前にしか見えないもの」が表現されていたのだ、とは言えよう。

そして、創作というのは、「みんなが認めるもの(容易に是認しうるもの)」を表現するものではなく、元来、「その人にしか見えないもの」を表現するものだと、私は考える。

そうした意味において、本作に描かれたものが「厨二病の世界観」だと評しても、それは決して、本作をバカにしたものではない。

(自室で、ドクロうさぎからのメッセージを受け取るドニー)

「厨二病」によるヴィジョンというのは、おおよそのところは「過剰な自意識が生んだ(いささか滑稽な)幻想」ではあるのだけれど、しかしそこには、大人になってからでは見えないもの、客観的には見えない、何らかの「真実」が含まれているのではないかと、私はそう評価する。
だから、本作では、「よくまとまったオチ」の方よりも、本作の持つ「独特の雰囲気」の方を味わうべきだと思うのだ。

この現実世界を、若きリチャード・ケリー監督と同じように感じている若者は、決して少なくはないだろうし、同監督が、その後に、本作に匹敵するような作品を作り得なかったのは、彼も歳を重ねて、若い頃に持っていた「非常の目」を失ったからなのではないだろうか。

 ○ ○ ○

ちなみに、本作の全米公開は「2001年1月19日」
「Wikipedia」によると、本作は、

『アメリカでは劇場収益はそれほど振るわなかったが、発売されたDVDはヒットチャート第1位となった。』

とのことだが、本作が全米公開時には振るわず、その後のDVDではヒットチャート第1位になったというのは、この映画が公開されたのが、かの「9・11 米国同時多発テロ」の前だったからであり、DVDが売れたのは、この事件の影響、ということも、大きかったのではないだろうか。

というのも、そのように見れば、本作の発端は「航空機のエンジンの落下事件」なのだから、本作はある意味では、「9・11」を暗示的に予告していた作品、だと解することも可能だからで、さらに言えば、公開日の「1月19日」は、「9・11」の裏返しなのである。

そうしたことからも、本作はまさに、「テロとの戦い」と、それに続く「世界内戦」という、世界の「終末」を思わせる「暗い時代」の到来を予告した作品だ、とも見えるのだ。

また、さらに連想を逞しくするならば、本作ポスターに描かれた、「空に浮かぶ、シルバーメタリックのドクロうさぎ」とは、奇しくも「航空機」を暗示していた、とは言えないだろうか。

「空に浮かぶ、二本の羽を長く伸ばした、金属製の機体」の暗喩である。


(2023年3月28日)

 ○ ○ ○





 ○ ○ ○


この記事が参加している募集