アーサー・ペン監督 『俺たちに明日はない』 : 変わるものと 変わらないもの
映画評:アーサー・ペン監督『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)』(1967年・アメリカ映画)
「アメリカン・ニューシネマの代表作」として知られる、歴史的傑作である。
先日、これもまた今頃になって、あまりにも有名な名作映画『カッコーの巣の上で』(ミロス・フォアマン監督)を観、その評価をめぐっていくつかのレビューをあたっているうちに、私は「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる一群の映画のあることを知った。
そこで「アメリカン・ニューシネマ」とはどういうものだろうかと思い、「アメリカン・ニューシネマ」の傑作と呼ばれる、マーティン・スコセッシ監督 『タクシードライバー』を観て、次に本作を観たという次第である。
このように紹介されていて、その意味では「ベトナム帰還兵の青年」を描いた『タクシードライバー』などはその典型的な作品だと言えるだろう。だが、必ずしも『ベトナム戦争に邁進する政治に対する、特に戦争に兵士として送られる若者層を中心とした反体制的な人間の心情を綴った映画』に限定されるというわけではない。
本作『俺たちに明日はない』のように、ずっと古い時代(1930年代前半)を舞台にした作品であっても、そうした「心情」が描かれている、この時代に作られたアメリカ映画でありさえすれば、それは「アメリカン・ニューシネマ」だということになるのである。
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まず、「今の目」で本作を見たら、どうかなのというと、「ああ、そういう話なのか」という感じで、特に驚くほどの作品ではない。
「そういう話」とは、大雑把に言うと「人間的には極悪人というわけではない(優しさを持っている)ものの、社会規範を無視したその無軌道な生き方によって犯罪に手を染め、最後は破滅する若者像」というようなことである。
つまり、この映画を観ると、わりと早い段階で、主人公のボニーとクライドのふたりが「悲惨な最期を迎える」だろうことは、容易に想像がつく。
こんなことをしていて、とうてい幸せ(ハッピーエンド)になどなれるはずがないという「先を考えない、今の充実だけを求めた、無茶苦茶な生き方」なのである。
この作品は、実在の「銀行強盗団」である「バロウ(兄弟)・ギャング」の中心メンバー「ボニーとクライド」を主人公とした作品で、クライドはバロウ兄弟の弟の方で、ボニーはその彼女(愛人)である。
ボニーとクライドの死亡日が同一であることからも分かるとおり、二人は同日同刻に、射殺されている。
映画では『車内からは軍の兵器庫からの盗品であるブローニングM1918自動小銃をはじめ、ショットガン、大型拳銃など、殺傷力の高い強力な銃器類が多数発見された。』の部分は、描かれていない。
映画だと、ボニーとクライドをはじめとした「バロウ・ギャング」の面々(ボニーの兄とその妻、ボニーがスカウトした若者モス)は、「強盗」や、それに伴う「殺人」に、あまり良心の呵責を感じていない反面、それぞれ個人的には、身内に対する愛情を持っていて、憎めない人間性を持っている、ように描かれている。
無論、現実の彼らがどうであったかはわからないが、そういう「身内に対する愛情」というのは、ある意味では「動物本能」的なものだから、極悪犯罪人にあっても、持っていて不思議のないものではあるし、彼らがこの映画の主人公である以上、そうした側面が描かれ強調されるのも当然のことで、なによりこの映画は、彼らに「同情的」な立場から作られた作品なのである。
そしてこれは、前記『カッコーの巣の上で』や『タクシードライバー』の主人公についても、同じである。
彼らは、端的に「犯罪者」であり、その観点からすれば、言い訳の余地のない立場にあるし、そもそも彼らには「被害者に対する視点」というものが決定的に欠けているのだ。
だから、「現在の常識的な視点」からすれば、いかに「人間的な部分」があろうとも、彼らは同情の余地のない、向こう見ずな犯罪者だとしか、評価し得ないのである。
しかし、彼らに共通するのは、彼らのおかれている「自由の失われた閉塞状況」だ。
『カッコーの巣の上で』では「精神病院」、『タクシードライバー』では「ベトナム戦争」、そして本作では「世界(経済)恐慌の時代」である。
彼らは、この「閉塞状況」という桎梏から逃れ、「自由」を求めた結果として、「罪」を犯す。
「自由を求める」にしても「もっとやり方があったはずだ」というのは、もっともな意見だし、なにより彼らは、自分が自由になるためには「他人の犠牲」を厭わなかった。というか、むしろ前述のとおりで、「他人のことなど眼中にはなかった」のである。
だから、「公正・客観的」に見れば、彼らは厳しい断罪も止むを得ない「犯罪者」ということにしかならない。
しかしである、もしも彼らが、もっと「恵まれた時代」「恵まれた環境」に生まれ育っていたとしたら、どうだろうか?
「精神病院」にしろ「ベトナム戦争」にしろ「世界恐慌の時代」にしろ、そうした「不自由な状況」におかれたこと自体には、彼ら個人に責任はない。
つまり、「社会不適応の問題性格者」であるというのは、多くの場合「遺伝と生育環境」の問題であって、当人の責任とは言い難い部分が大きいわけだ。
しかしながら、「社会」としては、そこに「情状酌量の余地」は見るとしても、「遺伝と生育環境」を理由に「個人の社会的責任」を免除するわけにはいかない。そんなことをすれば「犯罪者を罰することは不可能」となって「社会秩序の維持」が不可能となってしまうからである。
無論これは、「ベトナム戦争」や「世界恐慌の時代」といった「時代状況」についても同じである。
「そんな時代であったから、彼らは不幸にも犯罪者になってしまった」と同情することは可能だが、しかし、結果としての彼らの「犯罪」を免責することはできない。なぜなら、「同じ時代状況」「同じ条件」下に生きても、大半の人は、同じような犯罪を犯したりはしないからである。
したがって、この問題には、「二つの側面(視点)」があると言って良いだろう。
一つは「個人の内面」であり、もう一つは「社会的な事実」である。
このどちらの側面に注目するかによって、彼ら「反社会的性格者」への評価は、180度変わってしまう。前者だと彼らは「(社会的)被害者」であり、後者だと「(犯罪)加害者」だということになるのだ。
で、そのどちらの「側面」に注目するかは、これらの作品を観る人の多くがおかれた、その「状況」によるだろう。
つまり、「閉塞した時代や状況」に生きている人たちが、これらの作品を観れば、主人公たちに同情と共感を寄せるだろうし、比較的「恵まれた時代や状況」に生きる者が彼らを見れば、自身を「被害者」の側におくために、彼らを「加害者」としか観ることができないから、彼らに同情したり共感したりするのは自ずと難しくなる。
したがって、「アメリカン・ニューシネマ」とは、「閉塞した時代や状況」が必然的に産んだ「時代の子」であって、どんな時代にも、同じように鑑賞(し、評価)することのできるような作品群ではないのだと、そう言えるだろう。
その意味で「アメリカン・ニューシネマ」は、「普遍的な価値を持つ作品群ではない」とも言える一方、その「出自・背景」を知っていれば、そのことによって、今の私たちの「価値観や感覚」もまた、決して「普遍的」なものではなく「公正中立で客観的」なものなどではあり得ないということを、「教えてくれる」作品群だとも言えるのである。
その意味で、ブログ「老いてますますブロガー!!」の「老ブロガー しじみ」氏が、『俺たちに明日はない』を論じたレビュー「『俺たちに明日はない』 ~時代を映す鏡として~」の中で、とても面白い指摘をしている。
例えば、国境を違法に越えてくる「メキシコ人移民」を、どう評価するのか。
トランプ大統領は、国境に塀を作ってでも、断固として不法移民を拒絶し、そのことで熱狂的な支持を受ける一方、世界中のリベラルからは、「人道的な見地からして、認め難い」行為だと非難されもした。
つまり、ここでの「メキシコ人不法移民」をどう評価するかは、「立場」によって大きく変わるのであり、彼らはある意味で、現在の「ボニーとクラウド」だとも言えるのである。
無論、「メキシコ人不法移民」と「ボニーとクライド」では、犯した罪の重さがぜんぜん違うとは言えるだろう。それは、もちろんそのとおりなのだが、では、両者の間のどこに「線引き」できるのだろうか? そんな「線引き」など、果たして可能なのだろうか。
だがまた、そんな「原理的には不可能な線引き」を、あえてするのが「法治社会」であり、その典型が日本の司法における「判例主義」なのだとも言えるだろう。
例えば「1人殺しただけでは死刑にはできないが、3人殺せば死刑にできる」といったような、身も蓋もない「基準(線引き)」などが、それである。
したがって、「メキシコ人不法移民」の問題であれ、「ボニーとクライド」の問題であれ、決して私たち「日本人」と無縁なものではない。
例えば、『2021年(令和3年)3月6日、名古屋出入国在留管理局に収容中のスリランカ国籍の女性、ラスナヤケ・リヤナゲ・ウィシュマ・サンダマリ(1987年12月5日 - 2021年3月6日)が死亡した事件』として知られる「ウィシュマさん死亡事件」も、私たちの常識的感覚からすれば「非人道的な事件」としか思えないが、「法律」という観点からすれば「あれも、やむ得ないもの」ということになるだろう。
つまり、「メキシコ人不法移民」を越境させないために塀を建設してまで断固拒絶し、そのことによって彼らがどうなっても、そんなことは知ったこっちゃない、という考え方であり、「ボニーとクライド」が射殺されるのも「止むを得ない」「自業自得だ」ということになるのである。
また、日本において直接的に「ボニーとクライド」の事件と重なるのは、「金嬉老事件」であり「永山則夫事件」であろう。
前者は「差別と貧しさ」が絡んだ、立てこもり猟銃乱射事件(殺人罪、逮捕監禁罪、爆発物取締罰則違反)であり、後者は「貧しさと無知」に由来する連続殺人事件である。
金嬉老は、この犯罪で『暴力団員2人(未成年の少年1人を含む)に対しライフルを乱射して殺害』して、最終的には「無期懲役」となり、永山則夫は『1968年(昭和43年)10月 - 11月に東京都・京都府・北海道・愛知県の4都道府県で(中略)男性4人(警備員2人・タクシー運転手2人)を相次いで射殺した』罪により、死刑判決が確定し、長期の勾留の後、死刑が執行された。
こうした「罪と罰」を見た場合、私たちの多くは「同情の余地はあるにしろ、止むを得ない結果」だと、そう感じるのではないか。その時の私たちの感覚は「客観中立」的なものだと感じられているはずだが、しかし、それは本当にそうなのだろうか。そんな「立場」は、果たしてありえるものなのだろうか?
ウィシュマさんを死に至らしめた名古屋出入国在留管理局の責任者(職員)は許し難いが、「ボニーとクライド」を射殺した責任者、あるいは「永山則夫」を死刑にした責任者である「日本国民」は、許されて然るべきなのだろうか?
映画『俺たちに明日はない』は、映画作品として、次のように評価されている。
このように、映画の世界においては、本作『俺たちに明日はない』は、「画期的な作品」として高く評価され、すでに「古典としての評価」を得て、殿堂入りしていると、そう言えるだろう。
だが、「ボニーとクライド」の問題は、決して「過去のもの」にはなっていない。
「ボニーとクライド」の問題は、「画期的」なのではなく、まさに「普遍的・不変的」な問題となって、今も生き続けているのである。
(2023年5月22日)
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