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渡邊隆・山本洋・林吉水『自衛官の使命と苦悩 「加憲」論議の当事者として』 : 戦争を知らない軍人たち

書評:渡邊隆・山本洋・林吉水『自衛官の使命と苦悩 「加憲」論議の当事者として』(かもがわ出版)

本書は、元自衛隊上級幹部たちの私的な研究会である「自衛隊を活かす会」のメンバー3名が、自衛隊の「加憲」論議にあたってまとめた論文集である。

本書の最大の問題点は、自衛隊が「現に存在しているという、今の事実」というものを「自明の前提」としており、その「存在の是非」まで含めて「問う(検討する)」という根本的な姿勢が、あらかじめ閑却されている点であろう。

たしかに、自衛隊を無くすという選択肢は、現時点においては、ほとんどあり得ない。しかし「現在の自衛隊の存在を容認する」ということ自体が、すでに「結論」の一種であり、そこでは「自衛隊」の問題を根本的に問い直すという、あたりまえの態度は、すでに捨てられてしまっている。
もちろん、あらゆる可能性を考慮検討の結果として、今の自衛隊の存在を肯定するのはいい。しかし、それをする前から、なんとなく「空気」をうけいれて「自明の前提」としてしまうというのは、一種の思考放棄だと、私たちは自戒すべきではないだろうか。

だが、本書では、三人の論者たちが、いずれも「元自衛隊上級幹部」であるが故に、自衛隊が「現に存在しているという、今の事実」というものを「自明の前提」としており、その論説を読む者にも、その前提を共有することを、自明のごとく求めるものとなってしまっている。

そのため、いずれも内容的には「現にある自衛隊を、いかに効果的に運用するのか」という方向に議論が限定され、その結果、自衛隊の現状追認した上での、主に「法的地位の補強」といった話にしかなっていない。
しかし、このような「事後追認のドミノ倒し」が如何に危険なものであるかを、私たち日本人は先の大戦で学んだのではなかったろうか。

そもそも、その出自からして、自衛隊が「矛盾」を抱えた存在であることは、自衛官たち自身、最初からわかっていたことであり、それを承知で彼らは自衛隊に入ったのではなかったのか。
つまり、その「矛盾」を引き受けた上で、それでも日本の国防にたずさわると誓い、それを職務として、「自衛官」として俸給をもらっているのではないのか。
誰かから強制されて自衛官になったわけではないはずだし、納得いかなくても辞めさせてもらえないといったこともないはずだ。彼らは、そんな「自衛官」になったのであり、「日本軍の軍人」になったわけではないのだ。

それなのに、自衛隊の存在に内在する「矛盾」の意味を掘り下げることをせず、いきなり「矛盾の解消」を要求するして「(矛盾をはらまない)普通の軍隊」にしよう(近づけよう)とする議論というのは、話の筋としておかしい。

また、いずれの論者も「結局のところ、自衛隊のあり方を決めるのは国民であり、国民が考えなければならない」という趣旨のことを、いかにももっともらしく語っているのだが、上記のとおり、論者たちのやっていることは、読者である一般国民の思考範囲を限定し、ある「水路」へと誘導するものでしかない。

例えば、論者たちの「自己申告」を鵜呑みにするならば、彼らは三人とも「私心なく」「部下たちのことを思い」「自ら責任を引き受けて立つ」幹部自衛官であった、かのように見えるが、校長先生でも社長でも、人前では立派なことを言うもので、それがそのまま彼らの「素顔」である保証など、どこにもない。
まして、味方につけたい相手(有権者)に向かってなら、組織に責任を持つ幹部として、多少の嘘も交えて耳障りの良い話くらいは、当然するだろう。

だが、彼らの部下たちが、はたして彼らを、その「自己申告」どおりだと評価し、心から褒めたたえるだろうか。
私たちの多くが知っている、多くの「上司の現実」という「世間の常識」からすれば、「上司の自己申告と部下の評価の一致」などは、むしろ例外的であり、「自己申告=客観的事実」などという話は、かなり疑わしいと言うべきだろう。

事ほど左様に、本書所収の論文はいずれも、いかにも賢い上級幹部の「表向きの見解」であって、こうした性質のものを、疑いもせず額面どおりに受け取る読者のナイーブさというのは、極めて危険である。

そしてそれは、三人のうち最もユニークかつ危険な論者である、最後の林吉水の語る「基地反対住民との交流」に関する自慢話にも明らかだろう。
基地拡張に反対している地主住民を敵視するのではなく、逆に「挨拶をし、声をかけ、時にポスターをプレゼントしたり」して、徐々に人間関係を築いていき、いつのまにか自衛隊のシンパにしてしまう。
そこには、本来、思想的に対立している者同士が、その対立点をぶつけ合う(議論する)こともなく、ズルズルべったりの「馴れ合い」になることに、何のやましさも無い。むしろそんなやり方を、林は自慢げに紹介しているのだ。

いったいなぜ、こんなことが出来るのか。
それは、林のやっていることが、「人間的な交流」などではなく、警察がスパイを作る場合などにつかう「接近引寄せ工作」(青木理『日本の公安警察』参照)と同種のもの(廉価版)でしかないからなのだ。
要は、内心ではその地主を馬鹿にしながら、まんまとコントロールし、たらし込んだだけ、なのである。

そして、本書で行われていることも、これと同じことなのだ。

本書のタイトルは『自衛官の使命と苦悩』とあるが、彼ら自身にかぎって言えば、「困った」ことはあったようだが、「苦悩」したという形跡は、ほぼ無い。
それは、彼らの場合、その立場に即して考えは定まっているからであろう。つまり、その考えに不都合な現実に「困った」り「苛立ち」を感じたりはしても、自分の立場を毫も疑わないのだから「苦悩」したりはしないのである。

そして、およそどんな組織でもそうだが、真に「苦悩」するのは、「苦悩」させられる立場の、末端なのである。

最後に、林吉水という軍人が、どんな人かを端的に示す部分を紹介しておこう。
林は、自衛隊への国民の支持率が異様に高い現状は、決して好ましいものではない、と言う。
なぜなら、それは、国民がそれだけ自衛隊の世話にならなければならない不幸が増えているということであるし、それにこのような過剰に高い支持率は、先の大戦での軍部の暴走といった過ちを許しかねない要因ともなるからだ、と、一見「謙虚そう」のことを言う。
しかし、彼は「理想的な支持率」を、「自衛隊に対する多様な世論が大切」という見出しをつけて、次のように描いてみせる。

『 それでは理想はどのような数値でしょうか。
 「積極的に自衛隊が必要だ」と考える人が約三〇%としましょう。「国防安全保障にとって自衛隊はこのような役割を果たす」と、具体的に必要性を分析できる方々の一群です。
 次が、安全保障の詳細は分からないが、「役にたっている」、「積極的には関心がないけれど嫌いじゃない」という一群です。これも三〇%程度とします。
 三番目の三〇%はどうか。「金をかけすぎ」、「戦闘機一機節約すれば、随分といいことができる」、「平時は国土建設隊で利用できる」と言いながら、積極的な反対に回るわけではない一群です。
 そして残りの約一〇%は、いわゆる「平和主義者」ということになるでしょうか。D・マッカーサーが主張した「非武装永世中立国家」願望に固まった一群、「大東亜戦争」のトラウマから抜け出ない人々、内容は戦争の悲惨さを訴えているのに「戦争博物館」ではなく「平和祈念館」の名称にこだわる人々などの存在です。
 このような分布が理想と考えます。』(P164〜165)

ここに露わになっているものは、無論「謙虚さ」などではない。

林の論文は、見出しだけ見ると「「引き金を引くな」」「自衛隊に対する多様な世論が大切」「自衛隊を誤って動かす危険を防ぐ」「「加憲」がもたらす軍事行動の安易さ」「総理大臣の責任はどこにあるのか」「自分にとって九条は何の障害でもなかった」といった具合で、うっかり、この人をリベラルなんじゃないかと勘違いさせられそうだが、そうではない。

ここにあるのは「馬鹿な国民大衆の支持」や「法的な裏づけ」といったものなど、あろうがなかろうが、いざとなればどうとでも出来る、という類の「傲慢さ」だ。かつて、この国を誤らせた「軍人」のそれなのである。

この人にとっては、国民も政治家も、みんな現実が見えていない阿呆でしかない。
これが、人をコントロールできると自惚れ上がっている、元自衛隊上級幹部の「素顔」だ。

もちろん、自衛隊の上級幹部全員が、こんな人だとは言わない。
しかし、ここでも「スタージョンの法則」は、その正しさを示しているはずである。

「SFの90%はクズである。そしてあらゆるものの90%はクズである」

どんな組織であれ、上級幹部が口々に「ご立派なこと」を言っているとすれば、その90%は「眉唾」だと考えるのが、経験を積んだ「大人の知恵」というものなのだ。

初出:2019年4月18日「Amazonレビュー」

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