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「無教養の時代」の教養人

書評:片山杜秀『歴史という教養』(河出新書)

決して難しい本はない。だが、そんな「難しくはないが重要な問題」について、多くの人は十分に自覚的ではないし、十二分に理解しているわけでもない。
だからこそ今の日本は「無教養の時代」なのであり、だからこそ著者は、その大切な問題について平易な「腑分け」を書いたのだ。だから私たちは、謙虚にこの親切な講義に耳を傾け、自らの問題意識を検証し、不十分な部分については率直に反省して、教養を深めるべきであろう。

本書の眼目は、まず「歴史に学べ」と言うことだが、これは「歴史を学べ」ということではない。

歴史を学ばなければ歴史に学ぶことはできないが、歴史を学んでも、歴史に学ばない人は多い。
と言うか、世の「歴史好き」や「歴史マニア」の大半は、歴史に学んでいないのではないか。なぜならそうした「趣味」の多くは「現実逃避としての過去への逃亡」でしかないからだ。

したがって、本書の著者がその必要を訴える「教養としての歴史主義」は、『温故知新主義』と命名される。
つまり「故(ふる)きを温(たず)ね」るだけではなく、その上で「新しきを(も)知る」ということだ。言い変えれば「過去を学ぶ」だけではなく「新しい(未定の)今を直視」し、その上で「過去を今に生かして、今を生きる(切り抜ける)」という態度のことである。

そこで、著者は本書において、
(1)「誤った歴史主義=温故だけの(偏頗な)歴史主義」
(2)「知新だけの非歴史主義」
(3)「ニヒリズムとしての非温故非知新である非歴史主義」
の思想を具体的にあげて、快刀乱麻の手つきで次々と整理していく。

そうした思想の中では(1)に属する、今の安倍政権的な「復古主義」や、それを肯定したり批判したりと立場の定義的混乱が見られる「保守主義」や、(3)に属する「マルクス主義」などが、それぞれ批判的に論じられていて、著者の立場が単純な「政治的左右」の問題ではないことを歴然と示している。
著者が、批判しているのは、結局のところ「現実を見たいようにしか見ない、非知性としての反歴史主義」の蔓延なのである。

だからこそ、著者は「歴史への(真の)愛」として、過去の歴史も今の現実も不確かな未来も、すべてをありのままに受けとめて、私たちのリアルな歴史を前向きに生きていこう、と訴える。それは「確かな保証が無く、不安や苦労の多い道程」ではあるけれど、それこそが「歴史を愛する」ことであり「敗北主義としての非歴史的(非温故知新的=無時間的)ニヒリズム」には堕ちないことなのだ。

それにしても、著者はどうしてこうも「困難な生き方」を引き受けることができるのか?
それは著者が「豊かな教養人」であり「趣味人」であることと、決して無縁ではないはずだ。

この世界を幅広く豊かに愛することのできる人であるからこそ、ひとつの立場やイデオロギーに固執して我が身を守ろうとする必要がない。「貧すれば鈍する」けれど、著者は「精神の貴族(心の豊かな人間)」として、あえて困難を引き受けることができるのだ。
そして、そんな著者だからこそ、この「心貧しき時代の日本」に対して、いきり立つこともなく、あえて「真の教養を持ちましょうよ」と提案することができるのである。

初出:2019年2月18日「Amazonレビュー」

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