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マイノリティとマジョリティの間

私の兄には知的障害がある。

私はその兄の年子の妹だ。

いわゆる「きょうだい児」である。

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小学校低学年の頃、私は兄の手を引いて通学団で登校していた。

その役目を担うことが当たり前の責務だと思っていたし、周りの大人から
「なっちゃんはいつもえらいね~」
と、その行為を認めてもらえることが嬉しかった。

高学年になると、さすがに手をつなぐことはないが、興味ある方へと意識が引かれている兄に声をかけながら、一緒に班で登校していた。

そのころになると、同級生からの
「お兄ちゃん、〇〇学級(特別支援学級)なんでしょ?障害って治るの?」
なんて興味本位な言葉をときどき聞いた。

友達と、家族や兄弟についての話題になるとうまく対応できなかったりもした。

嫌な気持ちとまではいかないけど、
「私の家族は普通と違うんだな、、」
という思いを次第に感じてはいた。

それでも、両親は私に習い事をたくさんさせてくれ、それなりにわがままを聞いてもらっていたり、旅行好きの両親のおかげでいろいろなところに家族で出かけたりして、
それなりに充実していたと思う。


兄は知的障害をもつ「マイノリティ」の集団に属する。

いつも兄と比較されて
「妹さんはしっかりしてるね」
なんて言われて、
私は兄と違う「マジョリティ」の集団に属している、と思っていた。

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その私が。
今自分は「マイノリティ」の集団にいる、という実感がある。

「普通」の枠にどうしてもおさまらないことがたくさんある。


周りが正社員として働いている中で、私はアルバイトで食いつないでいる。

当たり前にみんながしている「食事」が苦手。

みんなと同じように恋愛を語ることが苦手。

アトピーと乾燥肌、そして身長の低さなど、身体的な特性。

ADHDという特性から生じる?生きづらさ。

「普通」に生きてきたはずなのに、
私は気づいたらいつのまにか「普通」ではなくなっていた。

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最近この本を読んで、「マジョリティ」と「マイノリティ」について気づかされたことが3つある。


①すべての人は「マジョリティ」の側面と「マイノリティ」の側面の両方をもっていて、
それが複合的に重なり合ってひとりの「個性」がうまれること。

②「マジョリティ」の人は社会の中で「特権」をもっていること。

③「マジョリティ」側の人は、自分が「特権」をもっているということに気づきにくいこと。


私の中にも「マジョリティ」と「マイノリティ」の両方が存在しているのかもしれない。


そして自分の「マイノリティ」の側面にはすぐに気づくことができるが、
自分のマジョリティの側面(経済的な面や都市に住んでいるという立地、国立大卒という学歴など)は自分にとって当たり前で「普通」であるので、
それが「特権」であるということを日常で意識することは少ない。


五体満足で当たり前のように動くことができる。

視覚や聴覚で情報を得て、会話をし、他者と思いを交流することができる。

大都市近郊に住み、車をもち、インターネット環境も整い、欲しいと思った情報や物品をすぐに手に入れることができる。
連絡したいと思ったときにすぐに連絡をとることができる。

私にとっての「当たり前」は、
きっとだれかの、喉から手が出るほど欲しい「特権」なのかもしれない。


逆に言えば、私も、兄妹で楽しく会話をしてみたかったし、普通の恋愛がしたいし、フリーサイズの洋服を素敵に着こなしたいし、心から食事を楽しみたいと願ってしまう。

それは私のマイノリティ側からくる生きづらさゆえに。


マジョリティの側面を使って活動的に過ごす私も、マイノリティの側面で苦しむ私も、すべて「私」であるのだろう。

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「普通」とは何なのか。

「普通」にあこがれる自分も、世間の「普通」に当てはまるところがあるではないか。

「普通」という言葉にその人自身がすべてあてはまることなど、ありうることなのだろうか。


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そう思うと、「自分と少し違う」と感じる人に対しても寛容に、対等に、
同じ「マジョリティ」と「マイノリティ」を併せ持つひとりの人として関わり、つながることができるのではないだろうか。

だれかを「守ってあげる」「助けてあげる」という一方的な「おせっかい」ではなく、
「それぞれの力を出し合って一緒に進んでいこう」という「共生」になるのではないだろうか。


わたしは、そんな社会に生きていたいし、そんな仲間を増やしていきたい。






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