隣の芝生はキレイで青々としている、ようにみえる。
無いものねだりだし、手を伸ばせば届きそうな距離にあるものが欲しいし、自分は他者より劣っていると感じやすいのが人間なんだと思う。
それを簡潔かつ的確にあらわした諺が「隣の芝生は青い」。
隣の敷地の芝生は自分のところよりも青々としていて、キレイに整えられていて、フサフサ具合も絶妙なバランスに見える、という経験は誰しもがあるのではないでしょうか。
隣の芝生は、いつだって青く見えて羨ましい。
けれどわたしだってどこかの誰かからみたら、「隣の芝生」なんだろうな、と思ったりもする。
「健康」が羨ましい
なんとなく気分絶不調期の今、とりわけネガティブなことに思考が覆い被されがちなので、その勢いでずっと感じてきた「隣の芝生」について書いてみようと思った次第です。
まずわたしにとって一にも二にもそう強く感じるのは、「健康体の人」。
わたしも去年の2月までは脱毛症の症状はあれど、そっち側の人間だと思っていました。
会社員のときに受けていた年一回の健康診断も、結婚後は自主的に数千円払って受けていた健康診断も、特段、ひっかかることはなかった。
27歳のときにはじめて受けた子宮頸がん検診では案の定ひっかかったので検査で多少痛い思いをしたけれど、インフルエンザに最後にかかったのは19歳の時だし、コロナもノロもいまのところ、まだ逃げ切ってる。
高校生の頃から頭痛持ちのため、ホルモンバランスの崩れとかで寝込む月もあるにはあるけれど、普段体調を大きく崩すこともなければ病弱でもなかったし、親からも「丈夫で元気なのが取り柄」などと太鼓判を押されるほどでした。
しかし去年の2024年2月に、状況は一変。
甲状腺乳頭がんと診断され治療したあとは、運動する習慣をつけるようになったり、農林水産省が定義する発がん性物質を含む食品をなるべく避けるようになったり、日々の中でなるべくストレスを溜めないように意識してみようとするなど、自身の生活様式がだいぶ変わりしました。
これらのことは病気がわかったことによって結果的にいい方向に変わったので、確かに結果オーライなんですけれども、それとは別に今でも心の片隅で、「気づかないままのが幸せだったのかな」と思う時があるんです。
それと同時に「何をアホなこと言うてんねん、元気になれたのは手術したからやろ」と突っ込む自分も、同じく心の中にいるんだけれど。
悲しさとトラウマ
もし「気づかないまま」で過ごしていたら、年月をかけてもっとがん細胞も大きくなって触診だけでわかっただろうし、転移の範囲も広がっていたことは想像に難く無い。
こんな弱音を夫に吐くと同じ言葉を言われるし、もしわたしが人からこのようなことを言われたら、わたしも同じように返すと思う。
しかしこれまではずっと「気づかないまま」だったことによって、何も考えずに楽しく過ごした年月も長かった。
その過ぎ去った年月を多分わたしは、恋しく感じているんだと思う。
わたしは過去に喫煙していたり、仕事終わりで疲れて果てていても朝方まで夜の街で遊び通してたこともありましたが、それらの行動がどれほど身体に負荷をかけているか理解はしてたものの、別に後悔はしてないんですよ。
だってあの瞬間は楽しかったし、20代の独身という特別な時間だったからこそできたことだし、タバコも美味しく感じてましたし。
それらを含めてもこれまでの人生で、基本的にあまり「後悔」や「タラレバ」を感じることはなかったタイプでした。
むしろタラレバをぐずぐず言っている人を見ると「過去は戻らんのに何言うてんねん」と思う方だからこそ、今の自分に歯痒く思ってしまうような、そんな感覚なんです。
いつかの記事で書いたかもしれませんが、自分がこういった病気になるのはもっと先のことだと、心のどこかで思ってたんですよね。
居住県の広報誌でもよく病気の特集が組まれているのですが、若年層・15歳〜39歳までのAYA世代のがん患者が増えているとはいえ、やはり他の世代に較べると患者数は少ないと書いてありました。
それを踏まえると、「33歳かぁ、そろそろ何が起きても仕方ないかぁ」と思うなんて、やっぱりできなくて。
だからこそ「わたしは元気だ」と思えていた頃が懐かしくて、寂しくなるんです。
何事も「気づいたとき」が一番のベストタイミングだし、その時に何を始めるにしても遅くはないと思っているものの、やはり一度病気を経験してしまうと、「身体のどこかが不調だったりいつもと何かが違う気がする」なんて一度思ってしまったが最後、「またどこかが悪いんじゃないか」という不安症のループにはまってしまう。
そんな感覚に襲われるのも、もう疲れてしまいました。
どうしてこんなに一際ナーバスになっているのかと考えてみると、どうもホルモンバランスのせいだけじゃなさそうな気がしてきた。
それはおそらく、病気が発覚した月である2月が近づいてきているからなのかもしれません。
治療が完了してもうすぐ9ヶ月を迎えるというものの、昔より病院にいくハードルが高く感じてしまうようになったりなど、きっとわたしの中では「トラウマ」に変換されている部分が大きいんだろうなと感じます。
去年の2月9日。
軽い気持ちでクリニックの扉を開けたのに、出るときは一人で泣きながら出ていった、あのときに初めて感じた恐怖を、いまだ忘れることができていない。
芝生はどこから見ても青い
隣の芝生はどう見たって青いに決まってるんですよね。
しかしよそからはそう見えても、自分の敷地だからこその悩みがあることも理解しています。
光と影があるように、こちらから見たらいつだってツヤツヤキラキラしてるように感じるけど、向こうからしたら自分の敷地の水捌けが一部悪くて実はそこに悩んでいたり、光の当たり具合によっては同じように見えていることだって、当然ある。
人には人の悩みがあり、なかなか言えないこともある。
わたしも甲状腺がんの治療をしたことはリアルの知人には数人しか話してないですし、かつて一緒に働いていた同僚たちや同級生とはかろうじてSNSは繋がってはいるものの、言うきっかけもなければ必要性も感じないので、告知していません。
しかし夫と旅行などあちこち行った写真は載せているので、端からみたら「充実してるんだな」と思われているんじゃないかな。
でも本当のところはひっそり闘病してたし、脱毛症も進んでしまったからいちいち眉毛描くの億劫だし、人からみたらわからない側面はやっぱり、わたしも持っている。
そしてその逆も然りで、わたしからみて「健康そう」「充実してそう」と思う人たちも、何らかの不発弾を抱えている可能性だってある。
「隣の芝生が今日も青い」
多分死ぬまでフィールドを変えて、そう思ってしまうんでしょう。
でも人間だからその気持ちに蓋なんて出来そうにもないし、病気に関して言えばまだ一年も経ってないし、まぁこんな気持ちになるのも仕方ない!と思えるようになれたらいいな。
きっとこれも「時間薬」なのでしょう。
過去を懐かしんで恋しく思うだけでなく、いつかその日々すら「あの時はそうだったなぁ」と思えますように。