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カラマーゾフの兄弟を読むために読書メーターをやめた [日記と短歌]23,11,7


あした、きょう、きのう、すべてを断つように栞を外す、また巡りあう/夏野ネコ


好きなことが定量化され、それが視覚化されると途端につまらなくなる。好きの総量が目に見えてしまうと、その量を保つために好きじゃないことを続けるようになるから。

私にとって読書メーターがそうでした。
読書メーターは読んだ本の記録をつけていく上でとても優秀なWebサービスです。使っている人も多いと思う。私も使っていました。

ピークの頃はだいたい年間100冊くらいのアベレージで読んでいたのですが、そう、「アベレージ」なんて書いたことからもわかるように、ある時から読書それ自体より数字を伸ばす方にモチベーションがシフトしてしまったのでした。
むろんそれは私の弱さに起因するものです。年間何冊ペースか、1日あたり読んだページ数は、などをチラチラ頭の隅に置き、となると同じ作品でも二段組の単行本よりページ数が稼げる文庫で読もう、など今考えると愚か極まりなく、本質的な読書とは無関係な単なる数字で私の読書体験が侵食されていくのにそんなに時間はかからなかった。
で、ある日思ったのでした。あぁ、これはやばいと。

いうなればKGIを「読書によって得られる豊かさ」と仮定するときそのKPIを「読んだ量」に設定していたと言えます。定量化された数字が出るので確かに指標にはしやすい。
しかしです、しかーししかし!!
量は増えるが豊かにはならなかった。無味乾燥な「年間100冊」みたいな何の役にも立たない数字だけが残り、なんだかもう疲れてしまった。
そのような愚かなループに入らない読書メーターユーザーさんたちが大勢なのは承知しています。サービス設計のせいではない。でも私は弱かったんですよね、本当に弱っちかった。馬鹿だった。どあほうだった。

そうして読書メーターに記録をつけていくことをやめました。数字に振り回されず、のんびりと気の向くままに、あるいは好きなだけ何度でも繰り返し、理解の及ばない自分の無知も、まるまんま引き受けて、時間をかけて読むことを始めたかった。もういちど。

はい、そのためにドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読みました。カラマーゾフの兄弟はその難解さと分厚さから「今の自分の薄っぺらい読み方では絶対に読破できない」という予感がビシビシとあり、ゆえに久しく積読になっていました。うん、わかってたんだよ、自分でも。

だから改めて「数字を追う読書態度はやばい」の自己認識をきっかけに心機一転、4ヶ月かけてじんわじんわと読み進めました。亀山邦夫さんの新訳なので読みやすい、はずなんだけど、いやいやいやいや、めちゃくちゃ時間かかりましたよ!
でもすごく素敵な4ヶ月でした。誰かに何かを誇るとか、競うとか、まして「カラ兄読んだぞ」的なハクとか、そうしたものと無関係に、ただ読んでいることが幸せでした。

今は本は、読んだり読まなかったりです。読書は一生の趣味だから、ある時には「読まないこと」も織り込んで、のんびり好きなようにやるのです。
あー!!もう本当に自由になれてよかったー!
ありがとうドストエフスキー!
ありがとうミーチャ!(推し)


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