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誰も傷つかない世界なんて存在しなかった。

17才の頃は、
誰も傷つかない世界があると思っていた。

世界のどこかの誰かが傷ついている一方で、そうじゃない誰も傷つかない世界もあると思い込んでいた自分がいたことに気づいた。

国際協力を目指してた当時の自分は特にそうだった気がする。

19才の頃フィリピンに行ったときにあまりにも優しい世界だったから、そんな思い込みがあった。

だけど、どの世界も誰も傷つかないなんてことはなかった。

幸福の国フィリピンでも自殺する人はいる。

「フィリピンにも自殺する人がいるんだ...」と実感したのは、自殺した兄弟がいるフィリピンの先生に出会って話したとき。

その兄弟は、ドバイで出稼ぎしていたが家族も知らぬ間に自殺していた。

労働環境もかなり過酷だったらしく、恐らく自分で抱え込みすぎて自殺してしまったのかなと思った。

そして、その奥さんは旦那の死後は鬱状態で、何も手につかず、自殺してしまうんじゃないかと本当に家族が心配したそうだった。

私は衝撃的で、いかに自分が"幸福の国"というレッテルでフィリピンを見てしまっていたかという無意識な思い込みに気付かされた。

そう思うと、自分はフィリピンの一部分だけ知って、「フィリピンが誰も傷つかない世界なんじゃないか」と思い込んでいた思うと視野が狭かったなと思う。

思い込みの裏の、無意識の感情

きっと「誰も傷つかない世界がある。」と思いこんでたのは、その頃の自分も含めてもう限界でこれ以上傷つきたくなかった自己防衛的な感情からだなと今は思う。

裏を返すと、「誰も傷つかない世界に行きたい」という強い願望だった。

誰かが傷つくのを見てると自分も苦しくなるし、同時に自分も傷つきたくなかったから。

しかし真実は、誰も傷つかない世界があるのではなく、

「誰も傷つかない世界ではないけど、新たに学んで反省を活かして生きることは常にできるから、良い方へ変えていくことは可能。」ということが事実だったなと思う。


毎日、どこかの誰かが傷ついていた。

自分が19才だった当時も現状もそう。

そんなことを知り、たしか17才の頃に栄養士になろうと決めて、卒業後はJICAの国際協力である青年海外協力隊を目指して働いた。

しかし、ある時私は、青年海外協力隊の仕組みに疑問を持ってからは、様々な疑問や事実を考えていた。

・ボランティアには継続性がないのか。
・ボランティアてはなく経済活動であるべきか。
・国際協力が必要な世の中には、何か根本的な原因があるという疑念。
・・・etc

そう思ったのは、栄養士で働きながら国際栄養学を聴講していたときだった。

そんな時に、尊敬する優秀な先生からこんな話を聴いた。

トンガ王国は、食文化的に、食事では主に炭水化物の割合がとても多い。

だから、トンガの人たちは日本の基準で言う肥満であることが普通だった。

地産地消で、その国の食べ物をその国の人達が食べていたときは数値的にも問題なく健康だった。

しかし、アメリカの巨大資本が入ってきて、商業施設に安いスナックや炭酸飲料などの文化的でない質の悪い糖類が輸入されるようになってから、糖尿病などの悪い肥満が増えた

そして、青年海外協力隊で糖尿病改善の要請がかかる。

「青年海外協力隊がやることは、氷山の一角なんじゃないか?」と思った。



そして、いろんな問いの答えを知れば知るほどに、その根底の原因がすごく理不尽で不条理な世の中だと知った時には、余計に心底悲しくなった。

世の中の不条理によって、心を病んだ自分を含めて現状に納得がいかず、世の中の理不尽な当たり前を変えたいと思った。

しかし、あまりにも巨大すぎる原因に最適な解決策がわからず、「この世の中は良い方に変わらないのかな...」と絶望して、ひとりで諦めそうになった。

けど、その時の自分はもっと世の中を知ることだと思い、解決策を考えるための足りない知識を知りたくて、必要な本を探して読んだ。



その時に疑問がたくさん生まれた。

何で飢餓や貧困がなくならないのか?
何で戦争がなくならないのか?
何で良くない政治は変わらないのか?
豊かさとは何か?
ボランティアとは?
経済活動とは?
NPO(非営利組織)とは?
正義って何?
・・・etc

自分たちよりも苦しい世界にいる人がいると思うと、これら全てを知ることは義務のように感じて、使命のように最適な答えを求めた。

21才頃、疑問に思った全ての問に答えを出さないと自分のやるべきこと・やりたいことが決められなかった。

自分の中の共通の問は、
「ヒトは何で無闇に争って、誰かを傷つけてしまうのか?」
だったんじゃないかと思う。




だから、もっと歴史や今の世の中について知りたかった。

自分なりに知ろうとしてきた中で、私は、世界をミクロにもマクロにも見ることで自分の問のヒントを得た。


世界をミクロに見ると、
必要悪は必須だと思った。


皆、誰しも傷つきたくないと願う。
それは、傷ついたことがあるから。

傷ついたとき、「自分は今のままでは良くない」と教えてくれてるようなものと思う。

だから必要悪がなければ、ヒトは現状維持のままで現状は良くならない。

それはきっと、傷つかないとヒトは新たに学ばないからだ。

そして、また傷つく人が増えないためにも、進化するためにも、私たちは新たに学ぶ必要があると思う。

傷ついて初めて、我が身を振り返り、思考して行動を考えるはず。

必要悪が存在するとわかれば、ヒトがヒトを傷つけるのも進化の過程だと思えるし、傷つかない世界がないことも理解できた。


ヒトは、早く進化しすぎたせいで、
多くの社会問題を抱えている。

これはマクロに見た結論だった。

私達は、生物学的に見たら、ありえない速度での進化をしているらしい。

科学等によって経済発展による物理的な進化が早すぎて、生活や思考等の様々な身体的な部分が最適化されず進化が追いつかない状態なのだと考えられる。

地球温暖化による気候変動、資源不足、ジェンダー差別によるワンオペ育児、家庭内暴力(DV)、ネグレクト(育児放棄)、経済格差、老人介護...

世の中で社会問題と言われてるもの全てがこの歪だと私は思う。


今日までヒトは、
ヒエラルキーと共に進化してきた


なぜなら私達は、急速な進化によって、社会を作り、資源を使い、貨幣を作り、貧富の差を作り、ヒエラルキーを作った。

そして、ヒエラルキーの上にいることが強く優秀だと思い込んできたのだと思う。

そして、その裏にはヒエラルキーを作ることでしか生きてこれなかったのもまた事実なんじゃないかと思う。

この本にも記載されていた。

生物学的進化論と経済学的進歩主義が結合して、無機的自然ー有機的自然ー人間のヒエラルキー構造が成立したのである。  (―西村豁通・竹中恵美子・中西洋編著『個人と共同体の社会科学』ミネルヴァ書房より)




しかし、そもそも社会なんてものは虚構(幻想のようなもの)であり、思い込みで存在してる。(←サピエンス全史を読んで思った)

ヒトがヒエラルキーを演じて踊らされてるようなものだと私は思う。

既に社会問題に翻弄されている現状は、それを物語ってるんじゃないかと思う。


不必要なヒエラルキーはいらない
 
ヒエラルキーで評価することは、生物の進化論的にはなくならないと思う。

だけど、不必要なヒエラルキーでの評価は確実に存在してます。

不必要なヒエラルキーは、"優位な立場にある者が、都合の良い用に立場を利用してマウンティングすること"が値すると思います。

そういう不必要なヒエラルキーで評価する社会はもう終わってる人には終わっているけど、続いてる人には続いてると感じる。

だから、これからの時代不必要なヒエラルキーでヒトを見ること自体がナンセンスだと私は思います。

だから、もっと不必要なヒエラルキーのようなフィルターを通さず人や物事を見れるようになれば、今よりも良い社会に変えていけるんじゃないのかなぁと感じてます。

自分も改めて、そう肝に銘じよう!とアウトプットして思った!



少し分かりづらい話だったかもしれないですが、読んでくれてありがとうございます!

ではまた!

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