なつな

1995年生まれ │栄養士Nutritionist / 摂食障害 / 🇵🇭 / 元ヘルス…

なつな

1995年生まれ │栄養士Nutritionist / 摂食障害 / 🇵🇭 / 元ヘルスケアアプリ スタートアップ/ 高野山 寺 真言密教/ 伊東 断食 / 昆虫食 / 予防医療 / 世界を捉えなおすために書くノンフィクション

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やりたいことも夢も仲間も失った虚無の果てに残ったのは、諦めの悪い自分だけ

年明けから、いくらか日が経って、気持ちも少し落ち着いてきたので、書こう書こうと思ってかけていなかったことをnoteに綴っていけたら、と思う。 そして、これを読む方で必要な人に、自分の指針のようなこの歌の歌詞にある言葉が誰かの心に届いたら良いなと思う。 私の人生は、一度終わっているここで言う"人生が、一度終わっている"の意味合いは、 「人生の意味とか、生きている意味とか、そういうものがすっかりと抜け落ちた生の営みになった。」 もしくは 「心に決めた何かに向かっていたはずの自

    • 誰かの為とか、自分の為とか

      これ、生きていると どちらか一方に偏りすぎている場合が多いなぁ と視てきた世界に思っている。 誰かのため、が偏りすぎて 歪みが返ってきていて 自分の為が強すぎても 歪みが返ってくる。 誰かの為に生きているのは、 同時に自分の為だ。 自分の為に生きるのも、 同時に他者の為である。 自分の過去の仕事で例えると、 会社のプロダクトも、仲間も皆好きで 他者へ尽くし過ぎた結果 無理がたたって続けられなくなった。 あのとき、 "自分の為"に生きるということがわからず、 センサ

      • 親を選んで生まれてくる訳ない

        「自分なんか、社会や他者に受け入れられることはないだろう」 と思い込んでいた。 ずっと頑なだったと思う。 まだ、頑張らないと、 頑張っていないと立ってなんていられない。 無条件で生きていていいなんて、 そんなことは感じられない。 だが一方で、 「無条件に生きていていい」と思えている人間が 世界に存在することも知っている。 そして、そういう人の大概は 家庭環境に恵まれていて 感情や自分の気持ちを周りにわかってもらえたり 受け入れられた体験の多いことから

        • 親の過ちは赦せないけど、今から未来は許していける

          私は、自分自身の過去の過ちや、虐げられたことに対して社会や親をずっと赦せないでいた。 ・不登校だった姉を傷つけて追い込んでしまったこと ・親の過ちを赦せないこと (父親の暴力や話を聞かずに、理不尽に説き伏せられたこと) ・太ってた体型のことから受けた同級生のいじめ ・摂食障害の頃の、誰にも頼れなかった過去の感情を昇華できないでいること これらの積年の後悔は、 "私だけ"の責任でも、 "誰かだけ"の責任でもなかったはず。 なのに、 どちらかの責任にしか感じられなかった。

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        • 自己探求/無意識
          14本
        • ※時間を置いて読み返したい
          120本
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          人生は空しく苦しいもの、意味や目的なんてない

          このタイトル、 物凄く悲観的なnoteな印象を受けると思う。 だけど、 これはこの上なく前向きな意味で書いている。   人生なんて早く終われと悲観したとき、 この苦しみの先へ行った時に、 人は楽観的になるということを、 最近改めて思い出した。 つい、人生には全て意味や目的があって、 完璧にしなければいけない、と 人生に真剣になりすぎてしまう。 そこに沿っていなければいけない、とか こうあってほしい、という期待や願望(いわゆる煩悩)に囚われ、それが執着即ち苦しみを生んで

          人生は空しく苦しいもの、意味や目的なんてない

          生きるのが辛いなら、自分に都合良く世界を捉え直せばいい

          .    slither.io(スリザリオ)をやると この世は無常だと受け入れられる(気がする)。 生じては滅して 煩悩通りに動いては、求めたり攻撃したりして 結局自分が滅することが多く、自分が苦しむ。 煩悩を捨てると うまくいくことが少し増える。 煩悩を捨てようとも攻撃されて 消えることはある。 この景色が、そもそもが 理不尽で不公平な今の社会みたいだなと思った✍ この世界に平等なんてない、と私は思う。 あると思っているから苦しいなら そんなも

          生きるのが辛いなら、自分に都合良く世界を捉え直せばいい

          あまのじゃくな相反する感情と向き合う

          自分を愛したいけど、愛したくない 親を大事にしたいけど、大事にしたくない 人を信じたいけど、信じたくない 話したいけど、話したくないこと 一緒にいたいけど、いたくない 愛されたいけど、愛されたくない 人と深くなりたいけど、なりたくない 生きたいけど、生きたくない いつだって、 人の感情というものは 常に相反していて、 心から本当に望んでいるはずのことが いざ起きると突き放したくなる。 「自分はそんな人間じゃない」と思う。 「大して大切にされるような人じゃない

          あまのじゃくな相反する感情と向き合う

          ずっと忘れられなかった初恋の人が、親友になった日

          最近まで、ものすごく辛い別れと、ものすごく胸の高ぶりを感じる歓びの両方が、同時期に自分の中で起こっていた。 この時期は、出逢いと別れの季節だとはよく言われているけれど、今年は本当に、人生で上位の大きな変化のあった季節だった。 春を待つ冬の終わりに、9年前に人生で初めて付き合った人と、二度目のお別れをした。 過去に一度喧嘩別れを繰り返した初恋のひでさんと、再会して一緒に住んだ。 その彼と二度目のお別れの時に、別れ際のギリギリまですったもんだありながらも、今のパートナーの理

          ずっと忘れられなかった初恋の人が、親友になった日

          自殺を止めるには、どうしたら良いのかずっとわからないまま

          この無力感と、しばらくの間闘っている気がする。 ・19才の頃に初めて付き合った元彼 ・2つ上の現在30才の姉 とても身近で、とても大切な二人の命の危険を感じたことがある。 「彼らが自死を選択しようとしたのは自分のせいだ」 「彼らが精神不安定になったのは自分のせいだ」 そんな自責の念で、自分の心が潰れそうになり疲弊してしまったことがある。 今も尚、その苦しみからは逃れられていないなと思う。 ついはずみで言ってしまった言葉に対し、精神が不安定な中で感情的になってしまった

          自殺を止めるには、どうしたら良いのかずっとわからないまま

          世界は正直どうでも良くて、一番大事なのは自分の願い

          社会や世界がどうなろうと、正直どうだって良いと思っている自分がいるなぁと、何てことのない日々の中でつくづく思う。 「私が私として生きた結果、変わったら良いんじゃないかな」とは思うけど、実際には、自分の願いさえ叶えば何だっていいなと思う。   自分自身が大切に思うことを守れたり、在りたい自分でいられたり、大切な人やものが大切にさえできていれば、あとは実際何でも良いなぁと思う。 特に、感情が動かず能動的になれないことに関しては、私の人生には関係ないなと思っている私がいる。

          世界は正直どうでも良くて、一番大事なのは自分の願い

          やっと、無数の点が線で繋がりそう

          "御縁"という言葉は、本当に魔法みたいで 奇跡のような巡り合わせで生じた御縁や、再び繋がった御縁、袖振り合うも多生の縁…… ここ最近の1-3年ほど、人との繋がりにおいて、"御縁"を感じることがかなり増えてきた。 その"御縁"を感じるたびに もう、本当に、今までどれだけの人と出逢って、助け助けられ、自分という人間がこれほどまでに一人で生きてきてはいなかったかということを思い知らされた。 "出逢いに生かされてきた" そう表現するのが本当に的確に感じるくらい、苦しかった

          やっと、無数の点が線で繋がりそう

          顔がわかるだけでなく、確かな信頼のある経済圏で生きたい

          よく都内のビルの狭間にある心ばかりの小さな公園で行われるようなマルシェだと「作り手の顔が見えるマーケット」だとか、スーパーの生鮮食品コーナーでは「生産者さんの声」といった”作り手(生産側)”に目を向けようとする動きがある。 生産と消費が遠すぎる現代において、それらは意味のある動きだとは思うけれど、それでも、そういった”生産と消費を縮めようとするような動き”が現れてから数年経つが、実際の所はというと、未だに生産と消費の距離は縮まっていないように感じる。 未だに、どこの誰が作

          顔がわかるだけでなく、確かな信頼のある経済圏で生きたい

          はじめから正解の選択肢はないとおもう

          過去の自分は、いわゆる"正解"の選択肢だとわかってから、選択することが多かったと思う。 けれど、今の私は、前のように「これでしょ!」という直感的な正解がない。 そして、現代に生きていると、とかく早く答えが欲しくなる。 あらゆるものが工業化した資本主義社会では、何もかもが効率化して、様々な商品やサービスにコストパフォーマンスをつい求めてしまう。そんな社会では、失敗するゆとりだったり、心の余白は意識しないと取りづらいよなあと感じる。 そういう社会がベースにあるから、私たちは

          はじめから正解の選択肢はないとおもう

          欲しいと願ってる内は、手に入らないことと同じだから

          この歌詞が、初めてこの曲を聴いた時から、ずっと引っかかっていた。特に「ずっと叶えたかった夢が、貴方を縛っていないだろうか。」という所。 きっと、図星だったから引っかかっていたのだと思う。 そして、 「なぜ諦めて、本当に欲しかったものを捨てようとしているのだろう」と考えていて、一年ほどわからなかった。 けれど、今日その意味がわかったような気がしたので、少しnoteに書き残しておこうかと思った。 … 「なぜ諦めて、本当に欲しかったものを捨てようとしているのだろう」の問の結

          欲しいと願ってる内は、手に入らないことと同じだから

          終わらない痛みは、この世に無い

          痛みが終わる訳がないと感じていた 生きる指針がハッキリと見えていた頃から、急に生きる指針の片鱗もみえなくなり、窮地に立たされたときがあった。 その時は、自分を責めに責めて、過去の積もりに積もった類の、ぶり返す痛みとひたすらに向き合っていたとても長い時期があった。 もう、幼少の頃からの積もりに積もった今更収集がつかない、どれが何かも、自分でももはやよくわからないような痛みが積もっていた。 とうに思い出さず、無いことにしてきた記憶もあったから尚更に。 けれど、自分でも自

          終わらない痛みは、この世に無い

          変わっていくもの、変わらないもの

          目まぐるしく変わっていく日々の中 少しずつ何かが欠けたり足されたりして 変わり続けているはずの日常において 変わってきたものと変わらないものがあって この風景とか友達といるときの自分や 友達は変わらないよなとか そんなことを思った。 最近起きたことと 昨日のお祭りに行ったからか いつかの子供の頃のことを 気づいたら書いていた。 … 埼玉県の片田舎である飯能に越してきたのは、 祖父母が居るからだった。 けれど、予定より早めに 東京から飯能に越した。 早まったのは、 姉が東

          変わっていくもの、変わらないもの