「根性論」は時代遅れを越えて「根性理論」へなれやしないか。
根性論とは「強い精神力があれば、何事も成し遂げられるとする考え方(デジタル大辞泉より)」。今では時代遅れといわれている。一方、計算や理屈より意欲や熱意が勝る経験をした人も少なくないだろう。
「根性論」を時代遅れと一蹴してよいものかと思案している。
そもそも、計画は思い通りにいかない。人は思うようには動かないし、知らないことが多すぎる。そして、計画ばかりで行動しなければ何も始まらないのである。
これは経験から得た学びといえる。そして、この経験のギャップは価値観のギャップとなり、伝えることが難しい性質をもつ。
人材育成をしていて「若いな」「青いな」「いずれわかる」といった感想はそのギャップがもたらしているのだろう。お互いにわかり合えないデットロック状態だ。
人材育成といえば、山本五十六氏(1884~1943)の名言が思い浮かぶ。
とても丁寧な育成法である。やはり「させてみせ」に偏重した根性論のみでは人材育成は難しいのかもしれない。しかし、山本氏はこうも云っている。
「習うより慣れよ」。
実際、試してみないとわからないことのほうが多い。知らないことに、あれやこれや思いめぐらせても得られるものは少ない。
僕も教える時に「つべこべ言わずにやってみろ」と言いたくなる時がある。
だから、根性論も一理あるのではと感じている。否定されるべきは、強い精神力を育む「方法論」の間違いではないだろうか。
「非論理的」の嫌悪感を越え、根性論は「根性理論」に進化はできないものだろうか。
では、いったい根性とは何だろう。
根性論の根性は「③苦しみや困難に耐え、事を成し遂げようとする強い気力」のことだろう。なんと、それには「苦しみや困難に耐える」前提があった。
話は逸れるが、成功者の体験談に周りから否定され、応援されないということがある。しかし、それが「見返してやる」といった挑戦の原動力になってもいるようだ。また、周りに反対されることにより、自分の熱意や信念を再確認し、ぎゅーっと凝縮し、揺るぎないものにしているようにも感じる。
もしかして、成功の要因の一つとして「周りから反対される」という試練が用意されるのではないか。
苦しみや困難に耐えることにより、成し遂げようとする強い気力が試され、醸成され、「根性」になるのではないか。
何かを成し遂げるということは「誰か」を動かしたことになる。誰かに、勝ったり、売れたり、称賛されたりと、誰かを動かしている。大きな仕事や社会問題の解決は「人」を動かすことが不可欠だといえる。
人を動かすには「損得の刺激」がある。損失を避けたいと思うあまり、合理的ではない選択をしてしまうことを行動経済学では「損失回避バイアス」や「プロスペクト理論」というそうだ。
また、合理性よりも好悪の感情が細部の判断に影響を及ぼすという考え方もある。
見たいものしか見ず、信じるものしか信じない。例え自分が間違った選択をしようとも、あれは正しかったと後から合理化もする。
人を「合理化する生き物」だと定義するなら、計算や理屈よりも感情を揺さぶるほうが人を動かすというのも納得がいく。ならば、感情を揺さぶるには「根性」は有効だ。
根性には「苦しみや困難に耐える」ストーリーがある。応援したくなる物語がある。そして、成し遂げようとする強い気力は「あきらめない」の原動力になる。
それは、挑戦の数を増やし、仲間の数を増やすということである。だから、それだけ成功する可能性はどんどん高まっていく。
「強い精神力があれば、成し遂げられる可能性が高まる」。
苦しみや困難に耐える。この強い気力こそが、成功の可能性を高める挑戦の原動力であり、失敗を恐れずに行動し続ける力を育んでいる。だから「根性論」を単なる精神論で終わらせず、成功確率を高める「根性理論」として進化させてはどうか。
特に「合理化する生き物」である人との関係性の中では、人を動かす可能性を高める「根性」は有効ではないだろうか。
「水を飲むな」や「戦略なき突撃」など、すでに否定されたものは時代遅れだろう。しかし、計算や理屈を試行錯誤するのにも、挑戦を続ける原動力が要る。計算や理屈、理論を「根性」で磨きあげる。
先が見えない未来を切り開くには「根性」が要る。しかし、根性一辺倒では間違った方法で突き進む恐れがある。だから「根性」と「理」の両輪が必要である。
経験のギャップを乗り越えて「よし、やってみよう」と意欲を引き出せる。希望の根性理論を論じられやしないだろうか。
理も根性も欠いてはならぬ。
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