陰翳咲桜〜花見のすゝめ〜
春になると気分が上がるのは、桜の木が僕らの顔を上に向けてくれるからかもしれない
桜が見下ろす花じゃなくて見上げる花で良かった
桜を見に行った
家から歩いて行ける距離に名古屋城があり、その周辺の桜が綺麗だと聞き、僕は中学生の時から愛用しているプーマのジャージにグレーのパーカーというTHE ダル着で出かけた
18時のことだ
最近買った梅の香りがする練り香水を手首と首に滑らせた
スーツで帰路につくサラリーマンや、色とりどりの野菜を詰めた半透明の袋を片手に歩く主婦とすれ違いながら春の陽気に触れて歩いた
こんなに良い気温なら朝から外に出ればよかったな、と相変わらずほんの少し後悔した
あいにくの曇りで夕日も月も見えなかった
名古屋城の近くにある公園に桜が咲いていた
外灯はひとつしか無く、滑り台のステンレスや錆びたブランコをやる気なく照らしていた
暗かったが、僕はそこに咲く桜にどこか居心地の良さを感じた
快晴の青を背にする桜は僕には綺麗すぎるし、煌びやかなライトアップを受けた桜は僕には眩しすぎる
曇りの空のグレーにぼやぼやと浮かぶピンクは、今の僕にちょうど良い
風にブランコが揺れギイギイと乾いた音を出している
しばらくそのブランコに腰掛け、タバコを吸いながら白い外灯に乱暴に照らされた桜を見ていた
目の前にある大きなしだれ桜は徐々に迫る夜にカーテンをかけている
桜のカーテンの間からグレーの雲が覗き、その雲の間から僅かに細く黄色い月が覗いた
まるで父の帰宅を居間で待つ子供が、扉のガラガラという音を聞いて玄関に顔を出すように
谷崎潤一郎は著書『陰翳礼讃』で日本の美について言及していたが、あの人なら桜をどういう場で、どういう光で、どういう風に見るのだろう
金蒔絵や漆器や掛軸と同じように、暗闇の中で蝋燭の火を灯すべきだと言うのだろうか
気付くともう夜になり、公園はすっかり闇に包まれた
公園の中でなるべく暗いところに咲く桜に近付き、花弁に火がうつらないようにしながらライターの火を灯した
闇の中に浮かぶ火は月よりも黄色く淡く、細長く丸い曲線の光がグラデーションを作り、その外側は優しく音も無く闇に吸収されているように見えた
ゆっくりと桜の花弁に火を近づける
闇の中で眠っていた桜がブラインドから刺す朝日に目覚めるように、徐々に力無く灯され、闇の中に薄いピンクを足した
火は桜のピンクをぼんやりと照らし、薄い黄色の膜が花弁に溶け込み、これまで見たことのないような恍惚とした色を映す
その色は健全でありながらわずかの命を思わせるように退廃的だ
雄蕊の先にある点々はまるで朝日を全身に浴びる肌の白い少女のように透き通って見え、細い柱頭は火の光によってその存在と影を失っていた
LEDのライトアップや快晴の空を背にした時には見せない朦朧とした表情をしている
しばらく眺めていると桜が酩酊しているように見えた
火が風に揺れ、桜の影が弱々しい輪郭の残像を作った
火を消すと、先ほどまでのピンクが大小の点となって空に浮かんだ
桜は色を失い、また影をも隠す闇に身を潜めた
だが僕はたしかに、そこに今も咲く桜を知っている
あの火の光は、桜のピンクは、半透明の雄蕊は、まだ僕の目の奥に映し出されている
僕はその小さな公園に、夜の火に燃え、照らされる桜を咲かせた
それはサニーデイ・サービスを聴いた夜の話
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