『藤村操の手紙』補遺
朝日新聞令和3年6月29日、「オピニオン&フォーラム」の中に、高田理恵子(桃山学園教授)「『純粋な絆』かってのもの」
高学歴男子の中に教養主義が根づいたのは藤村操が華厳の滝での投身自殺がきっかけになった。藤村操の自殺は、哲学的な動機による「純粋」なものだったと見なされて、当時の学生に大きく影響した、と書かれています。
『藤村操の手紙』に載っている人の名前に憶えがあって、不確かな記憶をインターネット検索で調べてみました。
『藤村操の手紙』本文も記載した方が良かったかしら。
本文を末尾に記載します。
阿部次郎1883年(明治16)~1959年(昭和34)
哲学者、美学者、評論家。
大学でケーベルから深い影響を受け、のち夏目漱石への私淑と重なって、いわゆる教養主義の根底が形成される。卒業後、漱石の門に入り朝日新聞文芸欄を場に評論活動をし、文芸や広く社会問題について理想主義的立場から真摯熱烈な発言をした。特に「三太郎の日記」によって多くの読者をひきつけ、人格主義を鼓吹して大正時代の思想に大きい影響を与えた。外遊後は東北大学で美学を担当し、リップス、ニーチェ、ゲーテの研究紹介に努めた。また日本文化に対する関心も深く、特に江戸時代の芸術について独自の見識を示し、晩年、阿部日本文化研究所を設立するなどの業績を遺した。
岩波茂雄
14.漱石と藤村操・岩波茂雄
第一高等学校の生徒であった藤村操は、1903年5月22日、華厳の瀧から投身自殺を図った。傍らの木に彫られた遺書「巖頭之感」には、「不可解」の一語もみられる。人生不可解は、芥川の「唯ぼんやりした不安」とも共通する面がある。自殺動機の真相はわからないが、漱石は藤村の英語の授業を担当しており、自殺直前の授業で、「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っている。漱石は教師にはむかないと思っていたが、自分の授業や教育に対しては自負心をもっていた。その自分の授業が一人の若者を死に追いやったのではないか、漱石は責任を痛感すると共に、自尊心もまた傷つけられたのではないだろうか。この頃から、漱石の神経衰弱と、家庭内暴力が激しくなり、妻子との別居生活にまで発展していった。
藤村の自殺は、漱石の心を深く傷つけたかもしれないが、『吾輩は猫である』『二百十日』『坑夫』にはこの事件を念頭においたとみられる記述がある。
藤村の自殺は社会的にも大きなショックを与え、後を追うようにして華厳の瀧から投身自殺を図ろうとした者が四年間で185名にのぼり、うち40名が実際に亡くなっている。第一高等学校に在籍していた岩波茂雄も、藤村の自殺にショックを受け、結果的に落第、退学処分の道を歩むことになった。再起して東京帝大に学んだ岩波は、やっと教職に就いたものの、向いていないと失意のうちに退職し、今度こその再起が書店創業であった。
1913年、神田高等女学校(現、神田女学園)の教職を退いた岩波茂雄は、南神保町16番地(現、神田神保町2―3、岩波ブックセンター)に古書籍店岩波書店を開業した。その翌年(1914年)、松岡陽子によると、岩波は漱石を訪ね、漱石の作品を出版させてくれと言った数日後、今度は漱石の本を出すのに金を貸してくれと言って来た。結局、妻鏡子の進言もあって、満鉄の株を、契約書を交わして貸したという。こうして10月、『こころ』が出版された。漱石は「岩波書店」の看板文字も書いて寄贈している。
一高で漱石の教えを受け、その後も長く親交をもった安倍能成は、藤村の妹恭子と結婚し、また同期の岩波と親しく交流していた。藤村の自殺を引き金に一高を中退した岩波が、若き日に深い傷を心に負ったまま歩む先生が主人公の一人である『こころ』を、岩波書店の処女出版としたのは、藤村を仲立ちに不思議な巡り合わせと言えるだろう。
漱石がいなければ、あるいは岩波茂雄が漱石と巡り合っていなければ、今日の岩波書店はなかったであろう。
(漱石の墓は雑司ヶ谷墓地の中にあった。日ノ出町の私の借間へ帰る途中だった。近いところに島村抱月の墓もあった。)
藤原正 (インターネットの検索ではこれだけしか出てこなかった。)
孔子伝 : (附)弟子列伝・集語
司馬遷著 ; 藤原正訳注
子思子 : 中庸 他六編
子思[著] ; 藤原正訳注
安倍能成1883~1966
哲学者・教育家。松山生。東大哲学科卒。岩波書店の経営に『哲学叢書』の編集者として参画。また京城大教授・一高校長を経て幣原内閣文相に就任。のち学習院長となり、その経営と教育に尽力した。戦後は岩波書店を中心とする平和問題談話会に代表として参加、全面講和と中立主義を説くなど世論にも大きな影響を与えた。昭和41年(1966)歿、83才。
東季彦
東 季彦(あずま すえひこ、1880年(明治13年)1月 - 1979年(昭和54年)7月18日)は、日本の法学者、出版事業家。旧姓乾(いぬい)。商法の権威として知られた。佐佐木信綱門下の歌人でもある。
経歴
奈良県十津川村出身。親類東武(衆議院議員、出版事業家)の養子となり、東姓を名乗る。1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、同年11月、一家で北海道新十津川村に移住。村の小学校を卒業した後、上京して旧制開成中学に入学。同校を卒業後、旧制第一高等学校から東京帝国大学法学部を卒業し、陸軍経理学校の教授に就任。
1922年(大正11年)、文部省留学生として渡欧し、英・独・仏で民法を研究。1924年(大正13年)に帰国し、九州帝国大学法文学部教授に就任。
1929年(昭和4年)、日本大学法文学部教授。1939年(昭和14年)、法学博士号を受ける。1938年(昭和13年)、養父東武によって創立された北海タイムス社に入り、監査役と常務を歴任。1942年(昭和17年)、新聞統制後の北海道新聞社初代社長に就任。同年、開成中学校長を兼任。
太平洋戦争後は日本新聞聯盟常任理事・事務局長を経て日本大学に戻り、1951年(昭和26年)、法学部長に就任。1960年(昭和35年)から日本大学理事。1962年(昭和37年)、日本大学学長に就任。学園紛争では強硬派として日大全共闘と対峙。
(私が在学したのは1956年~1960年、東季彦先生は、法文学部長だった。)
1966年(昭和41年)、勲二等受勲。国士舘大学法学部教授を経て、1969年(昭和44年)から日本大学顧問。
著書に、随筆集『マンモスの牙』(図書出版社、1975年〈昭和50年〉)がある。
兄の乾政彦は大学教授で弁護士、法学博士。一人息子東文彦は三島由紀夫の同人誌仲間で室生犀星の門人。新進作家として才能を嘱望されていたが、1943年(昭和18年)に夭折した。
那珂通世1851~1908
盛岡藩藩士・藤村盛徳の三男として生まれる。幼名を荘次郎と言った。藩校で優れた成績を修めたため、14歳の時に藩校・作人館の句読師であった漢学者・江帾通高(梧楼)から乞われて江帾家の養子に入る。藩主・南部利恭の近侍となり、養父が「那珂」と改姓したのに伴って、「那珂通世」を名乗った。戊辰戦争における敗戦を経験し、江戸の越前藩邸に預けられる。 明治維新後、福澤諭吉の書生となって、明治5年(1872 …
高山樗牛
[1871~1902]評論家。山形の生まれ。本名、林次郎。東大在学中に小説「滝口入道」を発表し、「帝国文学」発刊に参加。「太陽」を主宰。日本主義を唱えた。のちニーチェの思想を賛美し、晩年は日蓮に傾倒した。著「美的生活を論ず」「わが袖の記」など
『藤村操の手紙』著者 土門 公記 下野新聞社 2002年7月27日刊行
は藤村操没後100年近いのでとの刊行趣旨が書かれている。
1世紀昔の時代背景を調べてみたいと思い、この書に挙げられた名前を検索してみた。
東季彦の名は検索してみて私の日大法学部在学当時の学部長だったことが分かった。60年安保の最中であった。ノンポリだった私にも声がかけられたが、生活費を自分で稼がなければならなかったのを言い訳に参加しなかった。誠実ではなかった、という思いもあった。
私学連の執行委員が体育系の学生に半殺しにされたという噂が聞こえてきた。結局日大法学部では安保反対の運動には目立った動きもないまま抑え込まれた。70年安保ではそうはいかなかったのだが……。
『藤村操の手紙』本文
謡曲の仲間から電話があった。
「藤村操の本があって、こちらの仲間で回し読みしています。興味ありませんか」というので「華厳の滝に投身自殺した少年の『巖頭の?言だったか、記、賦だったか』と血のめぐりの悪くなった脳を掻き回していたが、ともかく貸してもらうことになった。
私はもう数年前に謡曲の稽古を止めてしまったが、妻が稽古の時にその本を預かってきてくれた。
『藤村操の手紙』著者 土門 公記 下野新聞社 2002年7月27日刊行
早速『巖頭の感』を読んでみた。
巌頭之感
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價(か)するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉(つく)す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
(明治36年5月23日の夜 叔父那珂通世痛哭して記す。)大樹を削って書かれていた書を叔父の那珂通世が書き取ってきたものである。
藤村操の生れ年が私の父親の生まれより21年早い。祖父の年代である。
これを見る前は父より少し後の年代かと思っていた。
友人は阿部次郎 岩波茂雄 藤原正 安倍能成 東季彦などそうそうたるメンバーである。
特に阿部次郎は著書『三太郎の日記』でお馴染みだった。旧制の高校生必読書だったというこの本は、ずいぶん長い間私の手元に置いて読み返していたものだった。
藤村操の師と呼ぶべき人は、高山樗牛 桑木厳翼 村上専精 海老名弾正など歴史に残る名が続々と出てくる。
漱石から英語の授業を受けたときに、漱石が指名したところ、藤村操が「やって来ません」といった。「なぜやってこない」と聞くと「やりたくないから」洋行帰りでプライドの高かった漱石はムッとしたが、「この次はやってこい」と言い渡してその場は収まった。次の5月20日、藤村操はまた予習をしてこなかったので、漱石は「やる気がないのなら、もうこの授業には出なくていい」と言い渡した。
ところが5月22日に藤村操が投身自殺したので、漱石は大変驚いて27日の授業の時に「藤村君はどうして死んだのだ」と最前列の生徒に聴いたという。
聞かれた生徒は「先生、大丈夫ですよ。新聞に出ているとおりの理由で死んだのです。生存の価値を疑って、解決が付かないから死んだんです。先生と関係ありません」と答えたという。漱石は「そうか」と言って非常にシリアスな顔をしていたという。
大変な秀才だった藤村操も自殺する前の何か月かは、勉強に身が入らないような状態だったと言う事だ。
彼の愛読していたのはアンデルセンの即興詩人、シェークスピアのハムレット、露伴の『尾花集のうちの血紅星』などだった。
彼の悩みは、哲学的懐疑と倫理的煩悶だという。
また、人格的な愛と自然の美(自然において美は愛に当たる)に慰められるという言葉が、友人への手紙に書かれている。
草は栄を春風に謝せず
木は落を秋天に恨まず
誰か鞭策を揮い四運を駆らん
万物の興欠みな自然
李白の『日出入行』より
彼が捕らえられたペシミズムは、その時代の気分というべきものであった。
ペシミズムは、「悲観主義」あるいは「厭世(えんせい)主義、世の中を嫌なもの、人生を価値のないものと思うこと」 などと訳される言葉である。物事を悲観的に考え、なんでも悪くとらえてしまう態度のことである。言葉の由来は「最悪のもの」を意味するラテン語pessimumである。
ショーペンハウエルとニーチェを高山樗牛が熱狂的に支持していた。『ツアラトゥスラ』生田長江の翻訳本明治44年。『ハムレット』坪内逍遥翻訳本明治42年。露伴『血紅星』全てを否定するという思想。ワーズワース『自然と人生』などなど、時代を覆っていた厭世主義にがんじがらめにされた、多感で繊細な少年の姿が浮かび上がってくる。
私は昭和10年(1935年)生まれである。中学へ進学する前の年に学制改革があった。高校へ入学したときには旧制中学の生徒が新制高校に残っていた。
旧制高校は新制の大学になった。新制高校には旧制高校のばんからな気風があった。私は背伸びして旧制高校生の愛読書を読んでみたいという気分になった。解りもしないのに。
阿部次郎の『三太郎の日記』を意味も分からないまま、読み返していた。誘いがあったのを幸いに、信州大学の学生ばかりだった読書会に入れてもらって、背伸びびしたものだった。
太宰治だのトルストイだの大学生が決めた本を図書館で借りて一生懸命読んだ。
そのころにも時代の気分というべき憂鬱な空気があった。高校の一年先輩が自殺した。同じ松本市内の高校生がやはり自殺した。
私が鉄棒で大車輪を試みてしくじり左手首を骨折した。続いて2人、同級生が骨折した。
自殺と骨折には関係がない。だがなぜか続いて起きるのだ。接骨院で同じ市内の高校で骨折が頻発していると、医師が不思議がっていた。
なにやら得体のしれない衝動があったことは、私自身が経験している。危険が分かっているのに止められなかった。
藤村操の自殺の原因について、藤村操が、「友人に宛てた手紙」の文章をこの『藤村操の手紙』という本の中で細かく分析して「ペシミズムに流された末の絶望」が自殺の原因と書かれている。これを読む限りそうであろうと思う。
頭脳明晰な彼にはその結末が分かっていたはずだ。分かっていながら引き返せなかったのだろう。
「絶望は死に至る病」「絶望は死に至る病」。いくたびこんな言葉をノートに書きつけたことか。骨折くらいで済んだから私はこうして生きている。
今年86歳になる。
2021年3月3日 記