複雑性トラウマ 終わらない闇の先を目指す方法を考えてみた①
読んでくださってありがとうございます。
自分は機能不全家族のもとで育ち
精神疾患(うつ病、DESNOSなど)で苦しみ
そこから回復した経験があります。
今回は自分の経験談をもとに
複雑性トラウマの終わらない
闇の先を目指す方法について書きます。
前回の記事はこちら
読んでない人はこっちから読んでみてね。
こんな記事も書いてます。
矛盾した思い、どちらも大事にする
いきなり辛い事実を
突きつけて申し訳ありません。
複雑性トラウマは
治療者やカウンセラーが治すものではないです。
治療者やカウンセラーは伴走者であって
良くするためのカギは自分の手にあります。
自分で治そうと思えないと
なかなか良くなりません。
さて、ここで読んでる人に質問ですが、
「自分で治そう」と思えますか?
この質問をしているのは
「自分で治そうと思えない人」を
責めようと思っているからではありません。
責めるつもりは一切ありません。
むしろ、その気持ちを
大事にしてほしいと思ってます。
自分が回復したって話をすると
ずっと精神疾患を治そうと
必死に向き合ってたと思われるかもしれません。
でも、実際は全然そんなことなくて
最初は自分の人生を自分で生きることを
決意することができませんでした。
それは自分が精神疾患になった原因は
機能不全家族、つまり“親”にあり
自分には一切非がないと感じていたからです。
精神疾患になるということ
少し自分のエピソードを交えて話します。
精神疾患になるということは
周りから「異常者」というレッテルを
貼られることになります。
死にたいという思いを吐露し
初めて精神科に行くことになったとき
「精神科に行くのはキチガイだから」
と母親から言われて
知人に会わないよう
辺鄙な場所にある病院に
連れていかれたのを覚えています。
精神を病んだ人間は
精神的に弱い人がなるらしい。
社会はそんな認識なのでしょうか。
父親からは
「社会に出てない癖に何で精神病んでんだ。
社会に出たらそんなんじゃやっていけねえぞ」
と精神疾患になったことを咎められます。
「なんか大変だね、まあ何とかなるよ」
「乗り越えられない試練を神は与えないから」
そんな言葉を友人に言われます。
医者からも薬を飲まなかったことで
「君は治す気が一切ないよね」
と治療動機がないことを責められます。
「薬を飲めばよくなるのでしょうか」
その疑問に答えられなかったから
飲まなかっただけなのに。
自分の辛さをわかってくれる人がおらず
周囲から孤立した気分になります。
頑張れない自分が悪いのでしょうか。
まだ自分は頑張った方がいいのでしょうか。
しかし、頑張ろうと思っても
体は自分の思うように動きません。
得体のしれない死にたい思いを抱え、
毎日地獄のどん底にいる気分です。
しかも、この地獄から
いつ抜け出せるのかは
自分では全然わかりません。
地獄に追い込んだのは誰か
この頃の自分はなぜこうなったのか
本を読んで理解していました。
この地獄に自分を追い込んだのは
他でもない自分の親なのです。
自分は親に服従し迎合することで
虐待的な家庭を生き抜いてきてきました。
辛い環境から逃れることができず
必死に我慢し辛い思いをしました。
そのうち辛い感情すらも感じなくなり
一緒に楽しい感情も感じなくなりました。
なぜか罪悪感を常に感じていました。
自分をだめな人間だと思い込み
何かを成し遂げないと
生きる価値がないと思ってました。
自分は無理を重ねに重ねて
その結果、精神を病みました。
誰の目からみても
もっと酷い虐待を受けていれば
周囲の人は自分の苦しさを
わかってくれたのでしょうか。
誰もわかってくれないなら
自分の苦しみは死ぬことでしか
伝えることはできないのでしょうか。
生きていることさえ辛いのに
まだ辛い思いをして
回復に向かって自分は
頑張らなきゃいけないのでしょうか。
この時はそんなことを思い
自分のことを
自分でどうにかしようとは
思っていませんでした。
この地獄に自分を追い込んだ
“親”に責任を取ってもらいたい
と思っていたのです。
大学1年生の時書いた日記があるので引用します。
自分で治そうと思えない自分をまずは受け入れる
自分の人生を自分で生きようと
思えないことを責めないでほしいです。
自分はむしろそう思うことは
当然だとすら思います。
この「治そうと思えない自分」を
受け入れる「自己受容」は
最初に自分が言ったことと
一見矛盾しているように見えます。
しかし、この「自己受容」がないと
複雑性トラウマを良くする
「変容」を起こすことは難しいです。
この例では
「自分を治そうと思えない」
「自分を治そうと頑張りたい」
矛盾した気持ちを大事にしてほしい
という話でしたが、他の事にも当てはまります。
自傷行為をなくしたい
うつで頑張れない自分を何とかしたい
自分を責めるのをやめたい
など変わりたい気持ちがあるかと思いますが
変われない自分も大事にしてほしいです。
「受容」と「変容」のどちらも
大事にしてほしいと思います。
治ることは一直線ではない
回復への段階は直線的ではなく
紆余曲折があるのが普通です。
回復の道を辿っていくと、
辛い記憶や難しい感情に近づくことがあります。
その場合、ケアをやめて
後戻りしたくなるかもしれません。
治ることへの抵抗は両価性の表れでもあります。
あなたの一部は変わりたいと思うかもしれませんが、
別の一部は脅威や恐怖を感じるかもしれません。
回復することは生き延びるのに役立った戦略
を放棄することにも繋がります。
変化を起こすことは、不健康な安定から
健康な不安定への一歩を踏み出し
コンフォートゾーンから抜け出すことです。
そのような変化に対して複雑な感情を抱くのは普通のことです。
そのようなときは一旦立ち止まって
変わりたいと思う自分と
変わりたくないと思う自分
自分自身のそれぞれの側面を表す声に
耳を傾けてることが大事です。
恐れを無視すると、自己破壊につながりやすくなります。
なぜ自分は変わらずにいるべきなのか。
どのような防御が自分の習慣になっているのか。
どのような点で自分の安全を守ってくれているのか。
こういう問いを自分に投げかけてみると
良いかと思います。
人と関わらないようにして
大切な人を作らないのは
見捨てられる恐怖を感じないように
しているのかもしれません。
相手が自分に好意的に接してきた場合でも
相手に何か裏の意図があるのではと考えるのは
自分が不当に扱われることを恐れ
警戒をしているのかもしれません。
人とプライベートな話をしないのは
自分の欠陥がばれることを
防いでいるのかもしれません。
自傷行為をすることで辛い出来事から
目を背けられるのかもしれません。
何でも完璧にこなそうとするのは
人から責められることを
回避しているかもしれません。
変化しようと思っても変われないときは
それ相応の理由があるものです。
そういう時は無理に治療を進めるよりも
一旦治療することを止めることを選んだり
前の段階に戻ることも大事です。
変えられないもの変えられるものを見極める
平安の祈り
この言葉は自分が今でも大好きな言葉です。
自分は変えられないものを変えようとして
今でもよく苦しんでます。
見極める賢さがほしい。
この「平安の祈り」は
色んな場面で当てはまります。
上記の例の治そうと思えるかどうか
ということもそうです。
自分がその時治そうと思えるか
まだ治したくないと思うか
それは自分が決定することです。
自分がその時向き合えないなら、
まだ変えられないことなのです。
体調も日々変化します。
全然体が動かず、起き上がることすら
辛いこともあります。
本を読んでも理解できないくらい
頭が働かないこともあります。
向き合える時がきたら、
変えていく勇気を持てばいいと思います。
この二つを見極めることが
自分を大事にする一歩です。
徹底的受容
変えられないものを受け入れる落ち着きを
という言葉は「徹底的受容」に似ています。
徹底的受容とは
自分自身を批判することなく
現在の状況を認めて受け入れることです。
(この概念は何もかも諦めて
自分に起こる全ての悲惨な状況を
受け入れることとは違います。
他人の悪い行動を容認することでもありません。)
『他人を変えることはできない。
変えられるのは自分自身。』
『過去は変えられない。
変えられるのは今と未来。』
『生きていれば何らかの
不快な感情は生じるものだ』
こういった今は受け入れたくない現実も
いずれ受け入れていく必要が出てきます。
上の現実を受け入れられない場合、
その自分の気持ちも尊重して
受け入れてあげましょう。
受け入れられない自分すら受け入れる。
「徹底的受容」です。
受容することが変容につながる
「徹底的受容」の例で
もう少しわかりやすいように
「うつ病」を例にあげます。
うつ病の人は
皆から社会から親から友達から
望まれているように周りの期待に応え、
早く元気になりたいと思っています。
しかしその思いが強いと
一日中気分が落ち込み、
何をしても楽しめない自分を「頭」で拒否します。
「自分はいつまでうつ病で
周りに迷惑をかければ気が済むんだ。」
と元気になれない自分を責めるのです。
寝れない時に寝ようとすると、
どんどん頭が冴えて寝れません。
しかし、一度寝るのを諦めると、
急に眠気がやってきて
眠りに落ちることがありませんか。
うつ病もこれと一緒です。
うつ病の症状を嫌なものだと拒否せず、
そういうものだよなと受け入れるのです。
これが出来るとうつ病は悪化する方向から
回復する方向に向かいます。
「病者の役割」という考え方
ここでうつ病を受け入れるのに
役に立つ考えを紹介します。
対人関係療法の「病者の役割」です。
「病者の役割」のという考えでは
うつ病の状態は本人にとって
基本的に望ましくないもので
自分の意思でコントロールすること
が出来ないものだと考えます。
わかりやすいように一つ例をあげます。
インフルエンザになった時、
熱が早く下がってほしいと思うのは
当然のことだと思います。
でも、自分の意思でいきなり熱を
36.0℃に下げようと思ってもできないですよね。
熱という症状はコントロール出来ないわけです。
うつ病もそれと同様に考えます。
うつ病になると
気分が落ち込んだり
意欲がなくなったり
死にたいと思ったりします。
でも上記のようなうつ病の症状は、
悩んでる本人は頭で考えても
どうしようもできないよ!って考えです。
頭で考えてもどうしようもないことは
もう受け入れるしかないです。
ネガティブに考えたくなくても、
そう考えちゃうわけです。
元気を出したくても、元気が出ないんです。
死にたいなんて思いたくなくても
勝手にそういう考えが浮かぶんです。
だって、それがうつ病の症状だから。
元気になれない自分を責めてしまう。
この自分をまず受け入れてあげます。
「元気になれないのはしょうがない。
だって自分はうつ病だから」
「自分を責めるのは
うつ病の症状だからしょうがない。」
こんな感じです。
回復とは逆に向かっている感じがするかもしれません。
でも、これがうつ病の回復の一歩になります。
非常に逆説的です。
変化するにはまず受け入れる。
変容する為にはまず受容が必要です。
うつ病を治す(変容)⇔症状を受け入れる(受容)
という対立した構図になってます。
この一見矛盾することを両立させることが
うつ病を治すベクトルに向ける鍵になります。
今回は
「矛盾した思いをどちらも大事にする」
という弁証法的な考えと
「平安の祈り」「徹底的受容」という心構えは
どんな治療法を行うにせよ
大事なものだと思い、紹介しました。
長くなりましたが、
読んでいただきありがとうございました。