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ヒューマニズム散文書評

「マダム、若くして死ぬこともひとつの幸福ですよ」

ジュネ『花のノートルダム』


強い憧れはいつしか嫉妬に変わる。天才は27歳で死ぬが、わたしは天才じゃない。
 
他人の中に生きることは、実に苦しい。
わたしは孤独を心底愛しているのである。
 
わたしはジュネを崇拝する人種だが、別に自分が死刑崇拝者とか、実在主義者だとかということを言いたいのではない。如何にも、実在主義の先駆者サルトルはジュネを崇拝しているし、わたしは彼の『嘔吐』を愛しているとさえ言えるほど読んだ。サルトルの講演『実在主義とはヒューマニズムである』で語られる「孤独」の概念を読み返し、わたしは安心する。
 

また孤独ーということをいう場合、われわれはただ、神が存在しないこと、そしてそのことからすべての結果を徹底して引き出さねばならないということを意味するにすぎない。もし神が存在しないならすべてが許される。したがって人間は孤独である。なぜなら、人間はすがりつくべき可能性を自分のなかにも自分の外にも見出しえないからである。…人間は自由の刑に処せられている。…人間は何のよりどころもなくなんの助けもなく、刻々に人間を作り出すという刑罰に処せられている…

サルトル『実在主義とは何か』


サルトルはここから「不安」の概念を引き出すのであるからわたしの話とは逸れるが、彼よるとあらゆるものの全責任は主体的であり、神とか他人とか、そういう外から受け取る" 何か漠然としたもの" ではないのである。哲学的な話はまあ置いておくが、わたしはそうありたいのだろう。何故なら、その漠然とした何かを受け取る世界線が怖いのである。
 
こうして文字にすると、自分の恐れるものは「生」に見える。それはたとえばトルストイのいう生であり、あるフランスの詩人が記した生である。
 

すべての人々が生きているのは、自らのことを、あれこれと思いめぐらして、 世話をやくからではなく、他の人々のうちにある、愛によるものなのです。
私は人が、一人ひとり、ばらばらに纏まりなく生きることを、神は望んでおいでではないことを知り、それからまた神は、人に必要なものが何であるかを、御自身で最初から示すことはなさらないのはなぜかを知りました。
人間の目には、自らがあれこれと我身のことに心を砕いているがゆえに、生きているよ うに見えるけれども、ただひとつ、愛のみによって生かされているのです。

トルストイ『落穂の天使』


 

純粋で、自由で、妥協しない、
そんなきみが好きなのだ。
わたしは知っている、
世界中の、全ての
人びとのなかできみを呼ぶとき、
きみだけがきみなのだと

『フランス現代詩集』(作者不明)


  
それは身の毛のよだつ、人と人との存在の間にはびこる、何かとてつもない大きな、自分には手の届かない" 漠然とした何か" だ。それは目に見えない。
 
ジュネはこの恐怖を『花のノートルダム』のなかで、単純明快なセリフに纏めている。
 

「一緒にいて、お願いだ。大好きなんだよ、一緒にいて」

ジュネ『花のノートルダム』


この恐ろしい事態を彼は、" 韻文悲劇" (そのすぐあとで"葛藤" " 終幕の牢獄"などと言い変えている)としたあとで、こう言う。
 

私の幸福の時代はけっして輝かしい幸福ではなく、私の平和は文学者や神学者が 「天国のごとき平和」と呼ぶものではなかった。
……神に見出され、神に指差されたりしたら、その嫌悪感は途方もなく大きなものになっただろうからだ。私にはよく分かっている。自分が病気になって、奇跡の力で治ったりしたら、かえって生きていられないことを。奇跡は卑劣だ。私がかつて便所に行って求めた平和、これから便所の思い出のなかに探す平和は、安心させてくれる甘美な平和なのだ。

ジュネ『花のノートルダム』


 
お分かりだろうか。
 
わたしは「孤独」を愛してるのではない。
恐れていたのは「生」でもない。
 

「愛」だ。
わたしは「愛」を恐れていたのである。

 
そしてわたしは愚かながらここ数日間のあいだに、自分自身でやっとそのことに気づいた始末である。

 
仕事を始め、2日目にバックレる。それを3週間で2回繰り返す。固形物を食べて吐く。買ったロープがある。使う勇気はない。大学を辞めないと生活保護は申請できない。言葉にできる唯一のアイデンティティをわたしは手放せない。惨めである。電話が鳴っている。怖くて出られない。そこにあるのは自分以外の人間の、感情とか友情とか生とか、そういう類のもの
ー すなわち「愛」かもしれないからである。
 
 
「死」を思考しているとき、わたしは「愛」について考えることを回避することができる。それはたとえばこう。

エルネスティーヌはパリへ新婚旅行に出かけたとき、ある夜、街路から窓のカーテ ンごしに、(こうした)壮麗で居心地の良さそうな住居をかいま見たことが、あった。……夫の腕にすがって歩きながら、 こんな場所でチュートン騎士団の騎士への愛ゆえに、花々に埋もれて睡眠薬で死にたいものだと考えていた。その後、すでに四回か五回はそんな死を夢想した。

ジュネ『花のノートルダム』


彼女は言わずもがな、「愛」の象徴という状況下で「死」について夢想する。それは安心であろうとわたしには解る。

あるいは、こう。
 

こうして、盗んだヒーターと、盗んだラジオと、盗んだ電灯の電線が這いまわる部屋で、二人の同棲生活が始まった。 朝食は午後にとる。昼間は眠ったり、ラジオを聞いたりする。夕方になると、おめかしして外出する。夜はいつもどおり、ディヴィーヌはブランシュ広場で客を探し、 ミニョンは映画へ行く。ディヴィーヌの人気は長く続くにちがいない。ミニョンに保護され、助言をもらっているので、どんな男なら金を巻きあげてもいいか、どんな役人ならゆすってもいいかを心得ている。ふんわり柔らかいコカインのおかげで、二人の生活の輪郭はぼんやりとかすみ、彼らの体はふわふわと漂いだし、二人を捕まえることは不可能だった。

ジュネ『花のノートルダム』


そこに「愛」の面影はない。愛のない生が、生活がある。それはわたしにとって絶対的「安心」なのである。

ああ、そうか、「愛」は「不安」なのだ。

解釈は違えど、サルトルが実在主義を語るうえで「孤独」「不安」「絶望」の3つの要素を採用した意味を、わたしはやっと理解する。
 
安心の果ては、簡単である。愛するスペインのジプシー、ロルカの詩を引用しよう。
 

死が歩いている
一本の道
しおれたオレンジの花をつけて

ロルカ『ロルカ詩集』


彼はこの死への旅路を「空と地獄のつなぎ目を探す旅立ち」と称した。
そういえばどこか空気感の似た詩が日本(記憶朧げ)にもある。誰の詩かは忘れてしまった。


百戦全勝の栄誉に輝く兵士だけが、知らず知らずのうちにあの歌を口ずさんでいた。 疲れた足取りで、夜道を、死にむかって行軍しながら・・・・・・。

作者不明(忘れました)


 わたしは人体を、わたしという存在を人体に閉じ込めながら藻掻く。
どうしても「愛」から逃げたい。わたしにとっての「愛」は、大抵文字や聞かされた話から学んだ単純な知識である。だから応用が利かない。受け取り方を教わっていないし、どう扱って良いのかも分からない。「愛」はたびたびわたしの眼の前に現れるも、わたしは取り扱い説明書を読んでいないからそれらを蹴倒してしまう。
 

人生には、奇妙に歩調をゆるめて、前進をためらっているのではないか、それとも方向を転じようとしているのではないか、と思われるような一時期がある。このような時期にひとは不幸におちいりがちなものらしい。

ローベルト・ムージル『三人の女』

 
そして、そのような時期にのみ、我々は測り知るのである。自分の周りのいくらかの人間が自分という対象に「愛」を向けていたことを。
思いもよらぬ人が、自分のことを少しでも考えたということを。
そして、それを無視して人は、生きられないということを。
 

どぶ川に落ちたばかりのオレンジがまぶしくてまぶしくて逃げたい

虫武一俊『羽虫群』


わたしは泣きたい
泣いてみたい
けれど人との関係なしに人間は泣けない
 
自分を見ないで、わたしは生きたい
けれど人との関係なしに人間は生きれない
 
 
 
サイレースは日本で処方できる一番強力な睡眠薬である。わたしはそれを2錠を飲んだあとで、眠れず夜が明けこの文章を書いた。
 

 
【余談】
生きています。死ねなかったんで。何人かの人たちが、どうにか障害年金の手続きができないかと働きかけてくれています(あくまで可能性としての希望)。何人かの人たちが連絡をくれたけれど、どうしたら良いのか分からず、返せていない人たちがいます。人体の中は、苦しい。取り扱い説明書求む。

誰かはそれを回復と呼び、誰かはそれを躁転と言う。薬では何も解決しないことは、両者とも承知である。愛を知らなくて、それに気づけなくて、傷つけてごめん。わたしの人生に現れた、数え切れないほどの人たちへ。
 
 
 
【参照】
この文章はそうだなあ、書評とでもいうことにしておこう。
一番多く言及した、ジュネの『花のノートルダム』(光文社古典新訳文庫、中条省平訳)か、主題としたサルトルの『実在主義とは何かー実在主義とはヒューマニズムである(1945年の講演記録)』(人文書院、伊吹武彦訳)を参照とでもしておく。

もう一度言っておくがわたしは別に実在主義者というわけではない。


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