「隠遁」するには理由があって。
この夏は、隠遁すると決めた。
4月になってから、この「夏は隠遁」というフレーズが何度か頭の中に流れていた。7月前半から猛暑が続き、さらに暑くなるだろう8月に向けて「夏は隠遁」を掲げたのは正解だったと思っている。避暑のいい理由を見つけちまった。
わたしは今、この記事を実家で書いている。
来週は授業があるので、数日後にはいったん一人暮らしの家に戻らなければいけない。でも授業がすべて終わったら、即実家へGO。「隠遁」スタートである。
わたしが通う大学では8月と9月の2ヶ月が「夏休み」となっている。
隠遁する理由は、とにかく寝ていたいとか、ゲームがしたいとか、そういう理由ではない。「自分自身の中身を詰める時間にしたい」からである。
大学3年になり、4月から卒論テーマを決めることになった。
私は哲学を専攻しているが、恥ずかしいくらいに知識がない。
隣の芝生が青く見えるというか、自分の土壌に芝が見つからない。
おかげで、テーマも迷走中だ。
「テーマを元にゼミを決めるので、夏休み中にはなんとかまとめてくださいねー」と言われたんだから、やるっきゃない。よし、「隠遁」だ。
自分自身の興味と向き合ったり、思想史の流れを勉強したり、自分の中に“哲学的な”中身を増やす時間を作ろうと思う。
「夏休みまで、お勉強なんて真面目ね〜」と言われたいわけではない。
この中身を詰めないと、大学を卒業できないかもしれないのだ(卒業論文書かないといけない学科なので)。
この点から見れば、「夏は隠遁」というフレーズは自発的な言葉ではなく、差し迫った状況下での判断を端的に表した言葉となる。
その一方で、「夏は隠遁」には自発的な要素も存在する。
簡潔に言えば、“人間的な”中身を増やすため、という理由だ。
哲学を研究していながら「人間的」という言葉を安易に使うのは若干むず痒い。ここでの「人間的」は、「哲学的」な中身と分けるための表現であり、大学の研究以外のことを指す。
具体的には、これまで読めていなかった本を読むことと、その実践が思い浮かぶ。
読書とその“実践”と書いたのは、インプットにはアウトプットを組み合わせるべきと考えているからである。
頭の中でしっかり言葉を噛み砕いて、自分に落とし込む。授業があって、課題があって…と忙しない日々にはできないことをやってみたいのだ。
実践にはいくつかの種類がある。いまの自分が一番しやすいアウトプットは、noteに書くことだろう。記事を書き終えるたびに思うのは、「もうネタ切れだぁ…」という達成感。でも、少し時間が経てば「あたしゃ、こんなもんじゃないよなぁ!?」とインプットを再開する。自分の中の知識や感情がぐるぐると動いていく感覚がこんなにも面白いだなんて、noteを書くまでは知らなかった。
生活習慣を変えてみたり、今までと違う部分に意識を向けたりすることだって、実践と言えると思う。
「隠遁」は、「いけるとこまで、自分をアップデートしてみよう」というチャレンジなのだ。
自分自身の中身を詰めてアップデートするには、体力が要る。
体力を上げることも対策にはなるけれど、いま持っている体力をどう使うかを考えることも大切だと思っている。
「夏は隠遁」という選択は、エネルギー配分を考えた末に導き出した方法なのだ。
noteを始めてから、およそ1年になる。
この1年は新しい出会いがあったり、これまでの人間関係が強くなったりするなど、人とのつながりに対する感謝が強くなった。
その結果として、涙を流す回数が格段に増えた。人とのつながり、優しさが、涙腺を刺激しまくるのだ。
ポジティブな涙なので、その都度書き留めるようにしている。
最近は、周りの人たちに対する感謝が涙として溢れてしまう傾向にある。
2024年に入ってからは体調を崩すことも多いし、中途半端な体力では周りの人たちに申し訳ない。感謝というよりも、罪悪感がきてしまう。
いろんな人たちの時間を最大限楽しむことができるように、体力をつける。
その第一歩として、まずは自分のアップデートにエネルギーを割こうというわけである。次第に体力はついてくるだろうし、今度会うときは私がアップデートされている、はず。
あともう少しで8月。私にとっての「隠遁の季節」が始まる。
これまでのインプットを噛み砕き、少しずつまた新しい変化を加えていく。
それを自分のペースでアウトプットしていく時間にしていきたいと思っている。
暑さから身を守るついでにアップデートなんて、一石二鳥じゃないか。
本棚のまだ読んでない本を見つけて、ニヤニヤが止まらない。
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