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「食べることが好き。」 ただそれだけの自分に、できることなんて


何もない、そう思っていた。

いや、今だってその考えは大きく変わらないのだけど。

胸を張って「自分にとって大切な飲食店のために、わたしにはこんなことができる」なんて、口が裂けても言えない。

大切なお店やそこにまつわる人、思い出を、守ることさえできない。ただの一消費者だ。

けれどわたしは、ここ数週間でたくさんの「大切にしたい、なくなってほしくないお店」との出会いを経て、それらに対して「これだけはやりたい」と思ったことが、3つある。

なんの足しにもならないかもしれない。自己満足なことかもしれない。だけどどうしても、何かせずにはいられなかった。

そんなちっぽけな誓いを言葉にしておきたくて、今日このnoteを書くことにした。


もう二度と訪れることのできないお店

気軽に外食をすることができなくなって、外でご飯を食べることがめっきり減ってから、まる1年が経った。

以前は週に3〜4回は夜ご飯を外で食べていたのだけど、ここ1年は多くても週に1回、まったく外食をしない週の方が多い。

大好きな人と、大好きな空間で、おいしいものを食べること。それは幼い頃からわたしの人生の中で一番の楽しみで、生きる意味と言ってもよかった。

外でご飯を食べること、誰かとご飯を食べることが悪であるかのように叫ばれる世の中になって、なるべく外でご飯を食べるのは控えよう、そう思いながら、この1年を過ごしてきた。

何度か制限が解けた合間に、好きで通っていたお店や、ずっと訪れてみたかったお店に足を運んでいる中で、気づかないうちに、営業をやめてしまったお店がいくつもあることを知った。

「いつか行ってみたいね」と話していた老舗の洋食屋さんや、日々、生き続けることがしんどかった新卒時代、わたしの心と身体を救ってくれた大切なカフェや喫茶店。

行ったことのあるお店も、ないお店も、そこに存在してくれていたから、わたしは明日を生きる意味を捨てずに今日ここまできた。

けれど、そのお店の扉を開ける日は、もう二度とこない。そんな事実に直面して、自分はとてつもなく大事なものを失ってしまったのだと悟った。


結局自分は、ただの「お客さん」でしかないから

もう少し早く、お店に足を運んでいたら。あの時、別のお店ではなくこっちのお店に行っていたら。考えても仕方がないのに、とめどない後悔が、ぐるぐると頭の中を渦巻いていた。

世の中は、「外でご飯を食べる」という行為が、不要不急だと言っている。ただの消費者であるわたしは、それに従わなきゃいけない。だけど、このままじゃ、大好きな場所が次から次へとなくなってしまう。

わたしは一体、どうしたらよかったんだろう。何が正しかったんだろう。
できることは、なかったのだろうか。

「ただ食べることが好きなだけ」の自分があまりにも非力で、情けなくて、悔しかった

だけど、どんなに悲しくても、悔しくても、結局わたしはただの「お客さん」でしかなかった。わたしには同じ頃、他に自分の力を使って救わないといけない人たちがいた。社会の一員として、もっとやるべきことがあった。

そんな心も身体も消耗する日々の中で、たまに訪れる「外での食事」は、やっぱりわたしの中では特別で、自分を取り戻すための大切な時間だった。

所詮自分は、そんな大勢いるうちの、ひとりの「お客さん」でしかないんだな。救いたいと思っているのに、救われているばっかりだなあ。やっぱり自分には、大したことはできないのかもしれない。

だったら、せめて自分が「お客さんとして」できる最大限のことを、するしかない。何度も同じところを行ったりきたりでぐずついていた思考は、ようやくそんな答えに行き着いた。


愛するお店に向けて、ちっぽけな誓いを立てた

言葉にしてみると、本当に些細なことだけれど。
これだけは、必ず続けよう。今、そう思っていることはこの3つです。

心の中で立てた、3つの小さな誓い:
①大切なお店に、何度も通う
②お店の人に、直接気持ちを伝える
③自分の言葉で、大切なお店の記憶を綴る


① 大切なお店に、何度も通う

「なんて当たり前のことを言っているんだ」と呆れられてしまうかもしれない。だけどこれは、自分の中では大きな大きな変化だった。

わたしはこの1年で、「一度行ったお店には行かない」というマイルールを撤廃した。

今までは、人生で自分が手にしている時間は限られているし、健康寿命だってタイムリミットがある。だったらできるだけ多くのお店に足を運びたいし、一皿でも多くの、知らない料理を味わいたい。

だから、一度訪れたお店には、何度も行かない。そう自分の中で決めていた。

けれど、自分の好奇心と「大切なお店がなくなってしまったときの後悔」を天秤にかけたら、圧倒的に後者の方に傾く。

自分の知らないお店には、もちろんこれからも行きたい。

だけど、自分が持つ時間やお金、労力が限られているのだとしたら、まだ知らないお店よりも知っているお店、有名なお店よりも自分が愛すべきお店を守る方に使った方が、いいんじゃないか。そう思うようになった。

バランスは今でも難しいなと思うけれど、できる範囲で、大切なお店には何度も通っていきたいなあと思っている。

②お店の人に、直接気持ちを伝える

今までも、お店の人とは積極的にコミュニケーションをとる方ではあった。

カウンター越しに料理をしているところを眺めていたらシェフと目が合って、食材や下積み時代の話で盛り上がったり。料理の味付けや、それに合わせて選んでもらったワインの味に感動して、その場で興奮気味に感想を伝えたり。

大好きな食べ物を前にすると、ついつい口数が多くなって、こちらから話しかけたくなってしまうタイプだった。

けれど、中には少し話しかけづらいなあと感じてしまう喫茶店のマスターや、常連さんが多くて、自分が何度かこのお店に来ていることは覚えていないだろうなあと気後してしまうような町の小さなお寿司やさんなど、「話しかけるのを躊躇ってしまう」こともしばしばあった。

けれどここ1年の後悔があったから、最近ではどんなお店のどんな人にも、ちゃんと「ごちそうさまです」以外の気持ちを伝えることにした

できる限り具体的に、自分の言葉で。お料理の盛り付けなのか、味付けなのか、選んでもらったお酒との相性なのか、お店の空間やインテリアなのか、シェフやマスターの想いなのか。

何がどうよかったのか、この気持ちが、熱が伝わるように、伝えることにした。伝えずにお店がなくなってしまって、後悔したくないから。すぐに忘れ去られてしまうかもしれない言葉だけれど、もしかしたら、いつか何かのタイミングで、思い出してもらえることがあるかもしれないから。

伝えずにお店がなくなってしまって、後悔したくないから。すぐに忘れ去られてしまうかもしれない言葉だけれど、もしかしたら、いつか何かのタイングで、思い出してもらえることがあるかもしれないから。


③自分の言葉で、大切なお店の記憶を綴る

最後は、Instagramで大好きなお店への愛を発信していくこと。

実はずっと、Instagramを続けるかどうかについては長い間悩んでいた。
(常に悩み続けている、と言った方が正しいかもしれない。)

発信しても、こんな世の中では実際にお店に行けない人も多いし、そもそも「外での食事」を発信すること自体に、後ろめたい気持ちがどこかでずっと燻っていた。

何より、自分が発信したとしても、その言葉が届く人は少ない。世の中には自分よりフォロワー数の多い人たちがたくさんいるのに、自分が発信する意味は、あるのだろうか?

半分真面目に、半分いじけた気持ちで、そんなことをずっと思っていた。


だけど。

もしかするとその考え方は、違うかもしれない。最近ようやくそれに気づいた。

わたしが守りたいお店と、誰かが守りたいお店は、同じじゃない。

自分だからそのお店で感じたことや、お店の人とのやり取り、一緒に行った人との会話、その時の感情や物語は、わたしにしか、伝えられないものだ。

唯一無二の、自分の記憶なんだ。

それを、写真と言葉で残しておくこと。わたしの物語に共感してくれる人たちに、伝え続けること。それは決して「意味がないこと」なんかじゃない。



そこに、お店があったこと。

その一皿に、空間に、笑顔に、心を救われたこと。
大切な人との思い出が、自分の人生に刻まれた瞬間。

たしかにそれは、そこに存在した。

その記憶を残しておくことは、いつか自分や他の誰かを救うことになるかもしれない。大袈裟だ、と笑われてしまうかもしれないけど。

だからわたしは、自分の基準で、そして自分の言葉で、愛すべき空間や人、味との出会いを、これからも綴っていくことにした。(更新頻度は、相変わらず低いだろうけど。)

***

あのときの「また来ます」が、どうか最後になりませんように。

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