過去の自分を正しく理解できるか?
先日フェミニズムのアーカイブについての公開講座に参加しました。歴史を残すための資料、コレクション、保管施設etc.であるアーカイブにおいて、政府や企業によるアーカイブはよく「エリートのみが記録される傾向が見え」、公的アーカイブから周辺された歴史の記録保管はマイノリティーには重要ということがありました。
マイノリティはコミュニティアーカイブという非公式的なアーカイブを通して主体的に自分らの形跡、歴史を残そうとしています。
講座の趣旨から少し違いますが、「歴史」も完全に客観的、中立的、ありのままに記録されているのではなく、歴史を記録する主体によって変わってくる可能性があると思いました。
中国語には「成者為王、敗者為寇」(政争で勝てば合法的に王と称し、負ければ非合法な賊と化す)という俗語があります。成者は王になる、正統の歴史も成者の歴史でしかないです。
個人の話になるとどうなるのでしょう。
個人が自らの歴史を記録、保管するアクティブアーカイブには文字、写真、動画、絵など様々なツールはあると思います。NOTEが存続する限り、このブログも私のアーカイブになるのでしょう(笑)。
手軽にアクセスできるのは写真、動画やブログですが、私は「日記」こそ自分の最も貴重な公開されないアーカイブだと考えます。
私は小学校時代からずっと日記を書いています。進学時期で間に中止したこともありますが、日本に留学に行ってからほぼ途切れなく書き続けて来れました。
数年前の日記を読んで、昔はこんなことで悩んでいて勿体無いなと思ったり、数年後はこんなことを実現したいと書いたことは本当に後になって実現できて過去の自分に勇気づけられることもあります。
記憶だけでは今の立場や意識に美化されたり修正されたりすることがありますので、一貫して大事にしている価値観や目指す自分像、未来予想図は何か、時々日記を読んで過去の自分から鍵を探そうとしていますが、日記から辿る過去の自分も信じていいのかと思う時もあります。
日記は確かに私的で、日々感じたこと、不安も悩みも、嬉しさ、興奮も、その時々最もいきている感情、出来事を綴っていますが、一切包み無く書いているかというと確信できないからです。
未来の自分に見てほしい、聞いてほしい、記憶してほしいことをアーカイブすることは多い分、たぶん自分に嫌がられそうな、臆病な自分をさらっと歴史から消そうとしていたかもしれません。自分の中の「成者為王、敗者為寇」が再現されてしまいます。
ブログでの公開日記や出版された日記も人に見せる前提で書いていますし、私的なものとみえるものの、「他人」を意識して見せたい自分を程よく曝け出そうとしているものになります。
では、過去の自分をどう正しく理解できるのでしょうか。
それとも過去に固執することなくても自分を知ることができるのでしょうか。
Podcast:Nana在日本
個人HP:https://nana-zai-jp.com/