現代社会の虚無をファンタジーが救える理由 『はてしない物語』考察まえがき
最も好きな漫画家が萩尾望都なら
最も好きな小説家はミヒャエル・エンデ。
これはきっと死ぬまで変わらないでしょう。
ミヒャエル・エンデというと児童文学を思い浮かべる人も多いと思いますが、当の本人は「子ども向け」と限定して書いたことは無いといいます。
実際に、彼の著作を読んでみると決して楽観主義者ではなく、本質的な幸福について深く考えてきた人であることがわかります。
エンデの長年の編集担当者であり、友人でもあったロマン・ホッケも次のように述べていました。
彼の代表作の一つである『はてしない物語』はエンデが危惧した「<虚無>に侵された社会」とそれを救う「ファンタジー(空想力と想像力)という鍵」について描いている物語です。
ファンタジーの一要素である「想像力」とは、すなわちエンパシーであり、現実で自分の認識できないもの、目に見えないものに心を馳せ、思い遣る訓練によって培われ、人間が必要以上に利己的になることを制御する力があります。そしてファンタジーのもう一方の要素である「空想力」。これは「無いものを一から生み出す力」です。エンデはこの「空想力」なるものに、ある意味では先の「想像力」以上に、我々人間に健全な感性を培わせる力があると信じていたことが、自身の数々の作品やインタビューの発言からわかります。
私には最初、何故エンデがここまで「空想力」に対し確固たる信頼を寄せているのかわかりませんでした。それまで私にとって、「空想力」とは「心を豊かにする」といった抽象的な作用でしか説明出来ない要素に過ぎなかったからです。しかしながら、エンデが様々な作品で描く「悪」の概念である「虚無」を分析するうち、その性質の根幹に「受動性」が潜んでいることを発見して改めて「空想力」の持つ価値に気づきました。「空想力」とは「無からの創造力」であり、それこそが「能動性」の塊、虚無の元凶である「受動性」と対を成す性質のものになります。「能動性」は幸福感を生み、「受動性」は虚無感を生む。エンデは、「空想」という能動的な訓練が、人々に幸福をもたらす鍵だと信じ、ファンタジー作品を紡いできたのだと思います。
想像力がない人間、思考することを知らない人間は、世間的に良いと言われていること、科学的に正しいとされていることを受動的に遵守することしかできない傾向にあります。新しく学んだ内容に、新しいアイディアや価値を付与する悦びを知らないからです。機械のように情報を受け取るばかりになってしまうと、規律にがんじがらめになり、生きることに対する「虚無感」を感じるようになる。そして、考えることを放棄した人間たちが安易に権威の示す「悪」を敵視し、特定の人間、特定の人種、特定の国家、特定の宗教を「悪」と認識することに何の疑問も持てなくなるのです。
第二次世界大戦を経験し、人々の受動的姿勢が「悪」を肥大化させることをその目で見てきたエンデは、人々が能動的思考を培う機会をあたえる居場所として、ファンタージエンという世界を大人も子どもも区別しない、全人類の心の住処にしようと作品を創造してきたのだと思います。
そんなエンデが執筆した中で世間一般的に最も人気を博した作品の一つ、『はてしない物語』はエンデ自身が命がけで書いたとインタビューで断言した作品です。次回の記事以降ではあらすじを紹介した上で、作中に登場する<虚無>について、本作の重要なシンボル・モチーフとなっている<名前>との相反する関係性や、物語の女王「幼ごころの君」の存在がただの女王ではなくファンタージエン国で機能している<善悪の法則>であること等を考察していきたいと思います。最終的には『はてしない物語』の最大のテーマとなっている<ファンタジー>が、物語と現実世界の二重の<虚無>を治療する鍵であるということに触れていきたいです。
同作品を「名前は知っているけど、読んだことが無い」、
「子どもの頃読んだけど最近読んでいない」という方は是非読んでみてください。大人になって読むと新しい発見が沢山あると思います。