『さよならミス・ワイコフ』という映画の解読
1.どんな映画なのか
『さよならミス・ワイコフ』(Good Luck Miss Wyckoff)は1978年のアメリカ映画。監督はTV映画『ホロコースト』や『エンテベの勝利』など、ユダヤ人問題を題材にした作品で知られるマー ヴィン・チョムスキー。彼の数少ない劇場用映画の一本だ。原作は『ピクニック』などで知られる劇作家ウイリアム・インジの同名の中編小説。音楽を担当して いるのが『ニュルンベルク裁判』や『栄光への脱出』などで知られたアーネスト・ゴールド。チョムスキーといい、ゴールドといい、ユダヤ系の作家が関係して いるのはこの映画の芯には反人種主義があるからにほかならない。
僕自身はこの映画を高校生の頃に見た。日本では生々しいレイプシーンがあることからポルノ映画さながらの扱いを受けた不運な作品だ。
2.ものがたり
カンザス州のハイスクールで教鞭を取るミス・ワイコフ(アン・ヘイウッド)は聡明で有能な教師である。彼女は校長を始め生徒や街の人から敬われる存在であった。反人種主義者でもあり、学生食堂における黒人と白人の分離制度を撤廃させるなど改革も行っており、同僚からも一目置かれる存在だ。しかし、その彼女に突然、精神的、肉体的異変が襲う。感情のコントロールが出来なくなり、生理が二ヶ月も止まってしまったのである。
婦人科医(ロバート・ヴォーン)の診察を受けた彼女は35歳であるにもかかわらず更年期障害であると診断される。
婦人科医の紹介で精神科医のスタイナー博士(ドナルド・プレザンス)のカウンセリングを受けることになる。カウンセリングから彼女が35歳まで男性と恋愛や性交渉を持つことができなかったのは幼年期から青年期に渡る両親の不和が原因であると分かる。彼女は両親の絶え間無い争いと暴力の中に巻き込まれる形で被虐待者となっていたのだ。クリスマスにも実家へは決してミス・ワイコフは帰ろうとはしないのだった。
スタイナー博士のところへ通う長距離バスの運転手とミス・ワイコフは親しくなり、経験していなかった恋愛や性愛の予兆が見えるが妻帯者である運転手はミス・ワイコフに近づきつつも、ついに関係を持つことなく家族を捨てて街を出て行ってしまう。
学校ではマルクスの思想を学生に説いたという理由で街中から非難を受け学校を追われようとしている同僚教師のためにPTAを集めて思想の自由とアメリカのデモクラシーの理想を演説し、人々から支持を受け彼を救う。
そんなある日、放課後教室で残業していたミス・ワイコフは掃除係りをしている不良ともっぱら評判の黒人学生に強姦されてしまう。
その日以来、ミス・ワイコフは人目を忍んで放課後の教室で黒人学生とセックスをするようになる。
エスカレートする学生の異常な性愛は全裸のミス・ワイコフをスチーム暖房器に押し付けてやけどを負わせる。たまりかねて悲鳴を上げたため、駆けつけた二人の男子学生に全てを見られてしまう。
翌日からミス・ワイコフは「黒人とやった女」と嫌がらせを書かれ、街中から白い目で見られ、ついに教職を失うことになる。下宿へ戻ると部屋の荷物が片付けられており、出て行ってくれというメモ書きが残されていた。
婦人科医に処方してもらった大量の睡眠薬で自殺を図ろうとするが、薬を飲もうとした瞬間、ミス・ワイコフは感情を爆発させて薬を投げ捨てる。
なぜあんなことをしたのか?という同じ下宿に住む親友である同僚の言葉に「あれでよかった。後悔していない。」と決然と言い残してミス・ワイコフは家々の窓から様子を伺う人々の視線の中、荷物をタクシーに詰め込んで街を出てゆく。
行くあてもなく駅で列車を待つミス・ワイコフにGood Luck Miss Wyckoffのテロップが重なり映画は幕となる。
3.ゼラニウムが語るもの
この映画を評している多くのレヴューはこの映画を1970年代の女性映画であるという。それは読み間違いである。最も甚だしい読み間違いは35歳まで処女であり、早期更年期障害であったミス・ワイコフが黒人学生に強姦されることによって女として目覚めたのだというものだ。
この解釈はどのレヴューにも共通している。そういう単純な読み違いをしてしまえばこの映画は男性視点のとんでもない作品となると僕も思う。実はそうではないのだ。
どう考えても強姦した相手と性愛にふけるなどという設定や展開は考えられない。
もし、そうなら、これほど奇怪で異常な映画は存在しないだろう。
ミス・ワイコフは自分を強姦した男性学生を愛してはいない。彼女は学生から頭ごなしの罵声を浴びさせられ、四つん這いで歩かされてフェラチオを強要されたりする。黒人学生にとってミス・ワイコフは性の欲望の対象でしかない。彼女は完全にこの黒人学生の性奴隷となっている。それにもかかわらず、ミス・ワイコフはこの状況から脱出しようとはしない。
毎日、放課後に黒人学生との性交渉を続けるのである。
この様な関係でミス・ワイコフが性に目覚めたというのはしっくりこない。ならば、何故、彼女はその状況に抵抗しなかったのか。
それはミス・ワイコフが何故35歳まで処女であったのかという問題まで突き詰めなければならない。むしろそこにこそ、この映画の主題があるのである。
ミス・ワイコフが35歳まで処女であり、早期の更年期障害に陥った原因は彼女の子供時代と青年期の家庭環境にあった。彼女は不仲の両親の罵声と暴力の中で日々を過ごし、精神的に抑圧を受け続けた。そういう環境の中でミス・ワイコフは育ったのである。
逃れられない支配のトラウマがミス・ワイコフの心を閉ざさせてしまったのだ。恋愛や性愛を受け入れることができないのは両親の激しい憎悪や暴力が密接に関係している。その中で彼女はすっかり飼い慣らされてきたのだ。
機能不全家族や家庭内暴力の中で育った者が自らを守りえず、自我を失ってしまう事はよくある事だ。それは精神科医であり思想家でもあったグレゴリー・ベイトソンの二重拘束理論でも報告されていることだ。支配による自我の喪失は同じく精神科医であったエーリッヒ・フロムによっても繰り返し説かれて来た問題でもある。
恒常的に暴力的支配を受けた者はその状況に従うことは苦痛であることをいつしか意識しなくなってその場に安住してしまうのである。既に自我は失われてその矛盾した状況に従うことかが「矛盾」であるという判断が下せなくなるのだ。これは統合失調症のメカニズムを証明しようと試みたベイトソンのバブルバインド(二重拘束)理論で解かれている。
ミス・ワイコフは母親から全裸にされて暴力を受けた父親を前に、お前も将来はセックスのことしか考えられない人間になるのだと罵倒され退室を命じられたという記憶から逃れられす恋愛や性愛から距離を置いていたことがカウンセリングで明らかになる。
つまり35歳までミス・ワイコフは母親の命令に無意識のまま従順でいたことになる。
もちろん、彼女は過去の忌まわしい記憶の数々から逃れて抵抗する行動を行っている。実家に帰らないこともその一つであるし、黒人学生と白人学生を分離するという学校の伝統を撤廃しようとする運動や、マッカーシズムの標的となって孤立無援になった同僚教師を救おうとする行為もそうなのだ。
ミス・ワイコフが最初に黒人学生に強姦された時、教壇の上で半裸のまま放置された彼女が最初にとった行動は何であったか。彼女は黒人学生が床に叩きつけた教壇の上にあったゼラニウムの鉢植えを泣きながら元に戻そうとしたのだ。
全てが明るみになって学校を免職になり、後任の臨時教師へ引き継ぐとき、ミス・ワイコフはゼラニウムの世話を頼むと言い残す。
彼女は弱い立場の者に絶えず敏感であり、守ろうとする。
婦人科医から精神科医のスタイナー博士を紹介されるときに「博士はユダヤ人ですが問題ないですか?」と問われた時に決然と自分には人種主義はないと答える。
弱者に対する感情移入とそれを救おうとするミス・ワイコフの行動は自分が受けた支配や暴力に対する抵抗である。それは他者を救うことであって自分を救うことではない。
自我を失った彼女は自分を救うことが出来ないでいるのだ。言い換えればゼラニウムを救おうとするミス・ワイコフの行動は無意識で自分を救おうとする代償行為なのである。
母から命じられた掟に支配されたまま35歳まで処女であったミス・ワイコフは機能不全家族の両親によって支配されたままであったが、黒人学生に強姦されたため処女を喪失し、両親の暴力支配は終わってしまう。代わりに出現したのは黒人学生の性暴力による支配である。ミス・ワイコフはその状況に従ってしまう。
自我を失った彼女は矛盾しながらも暴力支配に甘んじてしまうのだ。
恒常的な暴力支配の中で自我を失い意識の中で二重拘束を受け続けて来た彼女には自らを救うという選択肢はない。
ゼラニウムに象徴されるように、あれほどまでに抑圧される他者を守るために行動を起こせる彼女も自分のための抵抗は出来ないのだ。
彼女は自分の状況を受け入れそこで安堵さえ覚えるのである。これは「性の目覚め」なんかではない。支配者が入れ替わったということで強姦という事件が前支配者の母親を打ち壊しただけに過ぎない。
結局、代行教師にゼラニウムの世話を頼むミス・ワイコフは黒人学生との性交渉の問題で全てを失って後も他者を守ろうとして自分を守ろうとは思いもよらないのだ。
黒人学生の支配が消えた後、ミス・ワイコフを支配するのは街ぐるみのバッシングである。下宿の前の道路には白墨で「ミス・ワイコフは黒人とやってた」と書かれ、濡れ雑巾で必死になってそれを消そうとする。その抑圧に耐え兼ねてミス・ワイコフは睡眠薬を瓶から大量に取り出し飲もうとする。
死のうとした瞬間、彼女は怒りの感情が爆発し睡眠薬を部屋に投げ捨てるのだ。
4.ゼラニウムとの一体化~終焉
睡眠薬を投げ捨てた瞬間、彼女は自我を取り戻す。
投げ捨てるという行為は自分を死にに追いやろうとした状況や周囲の人びと、自分を強姦した黒人学生、遡って両親へ、すべての暴力支配に対する初めての怒りの爆発となる。
死に瀕して彼女は始めて気づいたのである。 それは心の奥底で怒りの感情が絶えず爆発しそうなまでに膨張していたこと、そして代償行為ではなく自らを取り戻して守るということ。
ここに来てミス・ワイコフはゼラニウムと一体化し、さらにそれ、つまり自分を守るという行動のスイッチが入るのである。
ミス・ワイコフは泣くことをやめ、決然と街を出てゆく。
出てゆく前に「なぜなんなことをしたのか」という親友の問いに「あれでよかった、後悔はしていない」と言い残したのは黒人男性との性愛を肯定しているのではない。それは更年期障害を克服する性の目覚めではない。黒人男性による強姦と性奴隷になったことで彼女は暴力支配を受け続けてきたことを自覚することが出来て自我を取り戻せたということに対して「あれでよかった、後悔はしていない」という言葉へ結び付いたのである。
この構造はミス・ワイコフの心の闇を知らない周囲の全ての人々には全く理解できない。過ちを犯したにもかかわらず開き直っているともとれかねない。
それは映画の鑑賞者まで及んでしまう。
黒人男性の強姦とその後の性交渉によって女に目覚めたと考えてしまうのはミス・ワイコフが受けた暴力支配とその構造を読み取れないために起こってしまうこの映画で起きる致命的な読み間違いなのである。
周囲が全くミス・ワイコフを理解できないままに映画がが終わるのはっこの映画の狙いである。
何故なら彼女の心の闇の問題を誰よりもよく理解していた精神科医のスタイナー博士は強姦事件の前後から映画の最後まで姿を現さなかったからだ。
しかもスタイナー博士はこの街の住人ではなく、長距離バスで行かねばならない遠い町の開業医であるという設定である。つまり。ミス・ワイコフを抑圧するメンバー(その中にはかつてのクラスメイトだった婦人科医もいる)はこの街にだけいるのだ。
この映画は35年間暴力と支配によって拘束され続けたある女性の自らの解放の軌跡を追った物語である。余りにも特異なプロットであるため、我々はその底流にある大きな主題を見過ごしがちとなる。
更に突っ込めば、この映画が反人種主義を主題に撮ることが多かった、マービン・チョムスキー監督によるもの、反共主義や学校内での人種差別問題の存在など、そこに加わる自我を失わせる暴力支配が加わっていることを考え合わせれば、我々が扱いかねているファシズムの支配構造にまで主題を発展させて論じることも可能だろう。
個人の問題から街の問題へ、そこから社会の問題へ、さらには国家の問題へと展開されて行くこともあながち荒唐無稽とも言えないようだ。
特異な作品ゆえに真面な再評価が与えられにくい作品ではある。
古い作品であるがゆえに今後、観ようという人びとも少なくなってゆくだろう。
しかしこれは間違いなく、今の時代にでも観るべき映画である。
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