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ぶっちぎれ。そうすれば、全員自分よりちょっと後ろ。
100mだけ早ければ、最強。そのままでありたい。そうありたかった。
小学校は足が速いやつが最強だった。
どれだけ馬鹿でも、目に見えない何かがあろうと、足が速ければヒーローになれた。
そして、足が速いか否かの土俵に、自分は立つことすらしなかった。
本を読み続け、グラウンドに行くことは少なく、たった15分の本気の外遊びに全力を尽くす友達を横目に、ひたすら本を読む生活をしていた。
思えばあの頃から自分の周りに流れていた時間の速さは今と変わらなかったのかもしれない。
1分は60秒であり、1秒は1秒だ。そこに例外はない。もれなく。
その1秒を0.01秒、100分の1秒にまで執念を燃やし、走ること以外の全てを捨てる。
「全力疾走る」と書いて「はしる」と読む。全身全霊を懸け、その一瞬以外に価値などを考えず、ただひたすら、前へ。
そんな経験をしないまま、ここまで来た自分がいる。
誰かと比べて圧倒的なことなんて、子供の頃は読書量と頭の中に作った図書館の広さくらいしかない。
あの日読んだ本を引っ張り出せなくなってからどれくらい経ったのだろうか。
小学校のクラスの本棚にあった本は全て読んだ。全て読んだし、そこに出ていた文字はほぼ覚えていた。
出世魚が授業で出てきたら、その言葉が出てきていた本を棚から引っ張り出していたし、テストは教科書に書かれていたことを書けばどうにでもなった。
どうにもならなくなったのは、入れる情報が自分のキャパを超えた頃からだろうか。
少なくとも、その頃から自分は局地的な最強ではなくなった。
文字通りの「生き字引き」からどこにでもいる「本好き」に墜ちた。
「たいていの問題は 100mだけ誰よりも速ければ全部解決する」
負けることがない「全力疾走」ではない「走り」で常に1位を獲り続けてきたトガシは淡々と語る。
それは即ち「2位になればそこに何の価値もない」ことを表す。
紹介が遅れた。今回は『ひゃくえむ。』という漫画について書いている。
出てくる人間全員が、ただ「速い」ことを心の底から願い、縋り、全てを犠牲にしてきたヒトたち全員が主役の漫画。
最近は「チ。」で話題の魚豊先生の過去作品らしい。
速いは正義であり、速くないことは正義でも悪でもない「その他」でしかない。
主役でもなんでもない、ただの「その他」だ。
負け惜しみも反省も涙も後悔も、何もかもが無意味とするにも値しない「その他」として処理される。それだけ。
ただ、走るだけ。全力疾走るだけ。そこに全てを置いていく。0mから100mまでの時間、そこに全てがある。
10秒そこらに全てが詰め込まれる。対価を捧げるかを考えるとき、頭を使わず、脳細胞一つ震わすことすらせず、細胞の寄せ集めでしかない体が瞬時に「捧げる」と断言する奴らしか、その勝負の場には立てない。
ただただ、隣のレーンの奴よりも一瞬速く。
走ることが全てではない。それでも走ることそのものに全てを捧げなければ自らの存在を証明できない人間たちの怨念が、0mから後ろ、マイナス地点には淡々と続く。
板の上の魔物とはよく言ったもので、板にすら登れなかった、そして板の上に立たなかったことを正当化してきた「敗北者」たちの視線の先、一瞬の静寂と凪の果て、10秒もすれば世界がただ一人に祝福をする熱狂を、自分たちは消費している。
これは別に陸上だけの、100m走だけの話ではない。
当たり前のような全力が今日も繰り広げられている。
これだけは成功させなければいけない。こいつにだけは負けたくない、自分には負けたくない。
全力はそんな瞬間にこそ湧き上がり、全身を駆け巡る。
劇中で、主人公のトガシはこんなことを言った。「たいていの問題は 100mだけ誰よりも速ければ全部解決する」
そうだ。力こそパワーであり、勝負の場で勝てなければそこに意味はない。
勝てばいい。全力で勝てばいい。勝てないのであればそこに意味はない。
そんな圧倒的な速さに祝福されていたトガシは、劇中に何度もその祝福を疑うことになる。祝福に脅かされ、祝福を求め、祝福の存在に懐疑的になる。
さて。
一体、自分の全力疾走はいつが最後だ?
いつが自分が先頭に立っていた最後の日だ?
いつから勝負を選び始めた?
負けを数えなくなった日は?
負けを負けと認めなくなった日は?
勝ちたいと心から願い、全力を出し切った末に運命や執念に最後の最後まで縋った日は?
いつから本気じゃなくなったのだろうか。
この数ヶ月、淡々と意識が変えられる瞬間に出遇った。
そこで(頑張らないと)と胸に刻み、その刻印はもうなめらかに戻りつつある気がする。
かさぶたを剥がし、新陳代謝を起こし続け、瀉血しながら新鮮な己で在り続けようとする気概はまだ自分に残っているのか。
飢え続けられているだろうか。
瞬間的な言葉との出逢いに震えさせられ、その振動はまだ残っているだろうか。
もしこんな風に感じられているのであれば、きっとまだ震えは治まっていない。そう思いたい。思い込みたい。
「人生を変えるナントカ」はどこにでも転がっているらしい。
「人生が変わった!」なんて安い感想を吐きたくない。
少なくとも、毎日何かを積み続けたい。あくまでもこれは願望で、実現する意思が伴っているのかは分からない。
それでも、思うことがあればそれはもう実現できる。
研究でも、仕事でも、生き様でもいい。何かで変えられたと胸を張りたい。
『ひゃくえむ。』に胸を張るよう、背中を蹴り飛ばされた。もっとも、そこに居た奴らは背中を蹴り飛ばして全力疾走をしているからか、もう見えなくなった。
読み返すことなく書き殴って、投稿する。
無茶苦茶で支離滅裂な記事に違いない。そんな日もまぁ、悪くはないだろう。
そんなわけで、今日はこの辺で。
ではまた明日。
よかったら『ひゃくえむ。』、週末に読んでみてください。今年の数あるベストです。