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【読書コラム】ニュートラル過ぎる主人公をどう解釈するかで読者のバイアスが浮き彫りになる恐ろしい小説 - 『光のそこで白くねむる』待川匙(著)
大学時代の友だちとやっている恒例のzoom読書会が今月もあった。課題図書は第61回文藝賞受賞作である待川匙さんの『光のそこで白くねむる』だった。
単行本の帯に審査員のコメントが並んでいるのだけど、絶賛に次ぐ絶賛で、どんな作品なんだろうと期待値は高まりまくっていた。
新人離れした作品。 ー 小川哲
この小説は強い。 ー 角田光代
美事だった。 ー 町田康
ただただ圧倒された。 ー 村田沙耶香
ただ、実際に読んでみるとわたしには難し過ぎて、どういう話なのかよくわからなかった。
主人公は田舎から上京し、アルバイトを転々としながらありきたりの貧乏生活を続けた末に、ここ数年は神社の参道に軒を連なる商店街の土産物屋で働いている人物。基本的には一人称で語られるていくのだけど、ずっと、不穏な空気が漂っている。
やる気がなくてもルーティーンをこなしていれば十分な仕事なんだけど、ある日、突然、店主がシフトを変わってほしいと要求してくる。そんなことは初めてだったので戸惑ったけれど、断る理由もないので引き受ける。すると、その日から店を無期限休業することになったと告げられる。
なんでだろうと不思議に思いつつ、帰宅し、眠り、起きてみるとニュースで店主が無差別殺人を起こして逮捕されたと流れている。なるほどと合点がいくと同時に、もしかして、あのとき、シフト変更を拒否していら事件は起きなかったんじゃないかともしもの可能性を考えてしまう。
自分も加害者なのではないか?
そんな予感に苛まれ、落ち着いた日々を送れなくなったとき、むかしのことが思い出される。幼い頃。変わった子がいた。恐竜が好きで、名前もなにも覚えていない。仲がよかったはずだけど疎遠になってしまって、後に母から、
「あの子、ずいぶん前に亡くなってたんや」
と、教えられた。なんだか、あの子の墓参りに行がなきゃいけないような気がして、休業補償として店主から渡された七万で生まれ育った地元へ帰ることにする。
主人公の父親は死んでいるし、母親は再婚でどこか違う土地へ移住しているし、地元に家族は一人もいない。それでも、あの子の墓を参るため、懐かしい風景を歩いていると聞こえないはずの声が聞こえてくる。それは子どものまま死んでしまったあの子なのだが、なぜか、語られる内容と自分の記憶にズレがある。
捏造された過去なのか、あるいは封印しているトラウマなのか。まるでプルーストの『失われた時を求めて』みたいに無自覚だった経験が時間差で立ち現れてくる。
また、それは認識のレベルを超えて、土地そのものにも侵食してきて、あっち側もこっち側と言うべき境界線が生じてくる。このあたりはフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』的な土地の因果を感じさせる。
でも、わたしに理解できたのはそこまで。後半以降、展開がどんどん抽象的になっていくので、段々ついていけなくなってしまった。結末部分もピンとこなかった。
とはいえ、一人称の主人公が信用ならない人物である点とか、田舎と異界が並存している点とか、初代プレイステーションの湿っぽいホラーゲームらしさがあって好感を持てた。例えば、『トワイライトシンドローム』や『夕闇通り探検隊』の雰囲気。最近だとChilla's Artの作品が継承しているテイスト。
そういう意味では『光のそこで白くねむる』をゲーム化しても面白そうだ。一人称視点で不可解な死を遂げた一族の記憶を追体験する『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと』みたいなシステムで構成すれば、認識のズレが効果的に演出できる気がする。
そんなことを思いながら、読書会に参加したわたしはあまりこの作品に対して誠実とは言えなかった。なにせ、真正面から受け止められなかった分、トリッキーに捉えざるを得なくなっているものね。
だから、一人、『光のそこで白くねむる』は大傑作だと絶賛している子がいてくれたのでありがたかった。これはどういう風に傑作なのか、教えてもらいたくて仕方なかったので。
その子曰く、とにかく文章が綺麗なんだとか。わたしが注目した構造的な部分ではなく、言葉と言葉の組み合わせが読んでいてひたすらに心地よく、いつまでも没頭していたかったと述べていた。作品の世界に入り込むということのできないわたしにとって、その感想は自分の視点からは絶対に出てこない種類のコメントなので、素直に新鮮で勉強になった。
加えて、主人公の性別を曖昧にしているのもよいと言っていた。たしかに最初から最後まで一人称の「わたし」が男なのか女なのか、どういう性的志向を有しているのか、明かされていなかった。でも、読み手である我々は自然となんらかのイメージをそこに重なることになる。してみれば、ニュートラル過ぎる故にこちらのバイアスがもろに反映されるというのだ。
その指摘は面白かった。というのも、言われてみれば、性別に限らず主人公はありとあらゆる要素が曖昧に記述されていたから。
わたしが一番気になったのはASD的な特性を持っているようなポイントが見え隠れするところ。具体的にはいつもと同じパターンに強いこだわりを見せる箇所。明示されているわけではないから、スルーすることも可能だけど、そこにフォーカスを当てたら物語の意味は大きく変わる。過去の認識が不確かなのではなく、この人にとってはこういう風に世界が見えているということなのかもしれない。前者なら責任から逃避しているように見えるが、後者なら生きにくさの表れとしてケアすべき対象になってくる。
そのことがわかった瞬間、この小説はどえらい仕掛けを仕込んでいたんだと遅ればせながら合点した。新人賞に応募するという試される側の小説が、その実、読み手を試していたんだとしたら、こんなにも刺激的な話はない。わたしは甘っちょろい読者だったから、途中でよくわからないとリタイアしてしまったけれど、そこでへこたれず最後まで喰らいつくことができていれば、納得のいく地平に辿り着けていたのかもしれない。
たぶん、一人で読んだ終わっていたら、そんな発想を持つことはなかった。読書会があってよかった。
本を読むって山登りに似ていると思う。みんな、同じ山を登っているはずなのに、頂上で「どうだった?」と互いの感想を聞き合ったら、景色が良かったという人もいれば、途中で現れた野生の鹿が可愛かったという人もいる。地形的な視点から見ている人もいるかもしれないし、こうしてひと段落したから飲むコーヒーの美味しさについて語る人だっていてもいい。
そこに正解はないし間違いもない。立体が見る角度になって違った形になるようにそのすべてがその人にとっての真実である。なので、わたしは一人だとわたしだけの真実にしか触れることができない。他の人の言葉を通して、自分が気がついていない真実を想像すること。そのプロセスを経なければ目の前のものであっても、決して、実像を掴めやしないのである。
だから、どんな意見であっても、感想を共有するって素晴らしい。補助線が一つ入るだけで混沌とした景色が一変し得る。特にこういう難しい小説ほど、読書会にはうってつけ。
さて、来月はなにを読もうか。
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