見出し画像

【時事考察】Mrs.GREEN APPLE『コロンブス』のMV問題について、「教養がない」とか「勉強不足」とか批判されていることに違和感を覚えた

 Mrs.GREEN APPLE『コロンブス』のMVに批判が集まり、YouTube公開から1日を待たずして配信が停止された。各種メディアでも取り上げられている。

 わたしはもともとMrs.GREEN APPLEが好きなので、このMVも公開すぐに視聴していた。

 たしかに問題のある表現は多かった。

 現在、ポストコロニアリズムの観点からコロンブスの評価は大きく変わりつつある。侵略者や奴隷商人という面にフォーカスが当てられ、一般的に英雄視をやめる動きが広がっている。作り手の意図がなんであれ、そんなコロンブスをタイトルに掲げることは必ずネガティブな印象を生んでしまう。

 また、猿たちの暮らす島を発見し、自分たちの文明を教える描写もネガティブだし、猿たちに馬車を引かせるシーンもネガティブだった。そもそも、ルーツの異なる人たちの仮装をすること自体、いまや物議を醸す演出である。

 結果、大森元貴さんは自らの名前で配慮不足を謝罪している。

 その上で、現在もなお、Mrs.GREEN APPLEおよびMV制作の関係者に対する攻撃が続いている。特に言われているのが「教養の欠如」や「勉強不足」が原因という批判であり、ちゃんと歴史を学んでいれば、こんなものを作るはずがないという怒りの声が飛び交っている。

 一見するともっともな意見に聞こえる。でも、本当にそうなのだろうか?

 前提として、コロンブスを悪とする価値観はポストコロニアリズムに基づくものである。これは植民地支配や帝国主義を批判的に捉え直すことを目的としたものであり、1978年のエドワード・サイード『オリエンタリズム』をきっかけに隆盛し、80年代、注目を集めた。

 同時期に流行ったポストモダニズムと相互に影響を与えながら、両者は自己意識に根差す形で、人種やジェンダー、社会階級など、様々な立場の声をすくいあげてきた。それによって従来の支配的だった西洋的価値観を否定しようとしたのだ。

 現代の思想につながっているので、いま、このような考え方を見ると、ポリティカル・コレクトネスの観点から正しいように感じられる。ただ、当時はそういう政治的な配慮ではなく、より切実な当事者の運動としてポストコロニアリズムは求められていた。

 第二次世界大戦が終わり、1945年、世界連合が創設されたことで、脱植民地化が進むことになる。1960年には17カ国独立し、アフリカの年と呼ばれている。

 だが、それで植民地支配が終わったとは決して言えなかった。西洋と非西洋の関係性は継続したし、民族同士の対立や独裁、内戦、紛争が相次いのだ。

 なにせ、植民地支配によって西洋諸国の都合で国境を敷かれ、民族をバラバラにされ、言語を変えられているのだから、今日から独立と言われても元通りになんかなるわけなかった。その土地から西洋人がいなくなったとして、植え付けられた西洋文化は残り続けた。

 これを一回否定しなければ、旧植民地は新たに自分たちのアイデンティティを取り戻すことはできない。この必要性からポストコロニアリズムが受け入れられ、当事者のやむにやまれぬメッセージとして強烈なインパクトがあった。

 この頃、従来では研究対象にならなかった分野を学術的に分析するカルチュラル・スタディーズも盛り上がり、フェミニズムやLGBT、クィアなど抑圧されてきたマイノリティにもスポットライトが当たり始めた。結果、弱者の声に耳を傾けることが重視されるようになった。

 そして、様々な領域で、かつては讃えられていた偉人や政策の評価が大きく変わり、各地で銅像や肖像画が撤去されたり、教科書の記述が変更されたりしている。

 かなりざっくりだけど、このような流れで複雑に作用し、コロンブスは「新大陸を発見した冒険家」から「先住民の虐殺者」へ姿を変えたとわたしは認識している。

 なるほど、そういうことかと納得できる。実際、コロンブスが先住民に対してしたことは少しも肯定できない。ただ、ポストコロニアリズムで歴史を作り直し、それを絶対視するのはどうなのだろう? と疑問を抱かずにはいられない。

 ポストコロニアリズムは植民地支配を否定したいわけなので、当然、その責任を追求する。西洋社会としては帝国主義の空気に基づき、政治や経済の兼ね合いで植民地支配をしたのかもしれないが、それでは言い訳をしているように聞こえてしまう。だから、責任者としてコロンブスを差し出し、ひどいやつだと一緒に叩いたのかもしれない。これはこれで問題を矮小化している危険がある。

 先述の通り、植民地支配は独立したからと言って終わるわけじゃない。ましてや同化政策で取り込み、問題自体をなかったことにしているケースも多い。これは過去の話ではない。現在を生きる我々にもしっかり関係しているのだ。

 もっと言えば、特定の価値観で過去の出来事に善悪の評価をつけることになんの意味があるのだろう。現代に生きる我々が言えるのは、帝国主義の視点だと英雄だったコロンブスも、ポストコロニアリズムの視点だと犯罪者になってしまうという相対的な評価だけなのではあるまいか。

 なお、この態度も相対主義として批判されるものなので、絶対視することはできない。下手すれば、どれも正しくないのなら、歴史なんて学ばなくてもいいという無気力に陥ってしまう。

 そうではなくて、歴史認識はとても難しいものだから、これを学べばOKなんてものはなく、常に様々な立場の考え方に触れることが重要なのである。

 さて、長々と書いてきたけれど、そういう意味で教養も勉強もこれで足りていると言える基準など存在しない。むしろ、学べば学ぶほど、すべての要素がポジティブとネガティブの真逆な解釈が可能であると思えてくる。

 ここで改めて、Mrs. GREEN APPLEの『コロンブス』MVを振り返ってみる。彼らが無知であるとしたら、ネガティブな要素を的確に並べ過ぎていないだろうか?

 コロンブスの他にメンバーはナポレオンとベートーヴェンにも扮しているが、交響曲3番を演奏していることが楽譜から確認できる。民衆の英雄としてナポレオンを賛美していたベートーヴェンが献呈しようとした曲だ。その後、ナポレオンが皇帝に即位したことを聞き、ベートーヴェンが激怒した逸話はよく知られている。これは偶然だろうか?

 あくまで考察に過ぎないが、『コロンブス』のMVはコロンブスたちの行為をネガティブに描く意図があった気がする。特にラストシーン。崩壊したバベルの塔らしいものを映していた。自然、強引な文化的介入が諍いを生むというストーリーが見えてくる。

 そのことは歌詞を見ても伝わってくる。

[Verse4]
文明の進化も
歴代の大逆転も
地底の果てで聞こえる
コロンブスの高揚

Mrs. GREEN APPLE『コロンブス』作詞・作曲:大森元貴

 これまでの価値観では称賛されていた「文明の進化」も「歴代の大逆転」も「コロンブスの高揚」も地底の果てに位置しているのである。死者のいる場所と考えたら、そこは地獄。恐らく肯定はしていない。

 だから、謝罪文で述べている通り、「決して差別的な内容にしたい、悲惨な歴史を肯定するものにしたいという意図はありませんでした」に嘘はないのだろうとわたしは受け止めた。

 とは言え、作者がなにを伝えたかったかは関係ない。実際にどう伝わったかがすべてである。仮に複雑な物語があったとしても、MVという表現方法には合っていないので、その失敗は擁護のしようがない。

 故に、問題を認識し、迅速に公開を停止、自分の名前で謝罪する必要はあったと思う。コカコーラのタイアップ曲であり、不特定多数に向けて発信している以上、ポストコロニアリズムが絶対ではなくても、それを無視した表現は成立し得ない。そのことはちゃんと批判されなくてはいけない。

 ただ、その失敗を「教養の欠如」や「勉強不足」と個人の問題に帰着させることには違和感を覚える。それじゃあ、まるで、正解となる教養や勉強があるみたいではないか。

 勝手に正解を決めて、そこから意図せずズレてしまった人たちを無知と否定し、排除した先になにが残るだろう? 自分は教養があり、勉強をしていると信じ込んでいる人たちによる選民が行われてしまう。しかも、その教養と勉強はアップデートされ、うっかり、ついていけなくなったら差別主義者の烙印を押されてしまうのだ。

 意図的に差別的な表現をする人もいるから、防衛を兼ねた攻撃をしなきゃいけないときがあるのもわかる。しかし、今回、Mrs. GREEN APPLEは動画をすぐに公開停止し、大森元貴さんの名前で謝罪文も出し、失敗を認めている。やれるだけのことはやっている。なのに、人格攻撃が続いている。

 我々はポストコロニアリズムが植民地支配を批判する必要性から生まれた考え方であることを思い出さなくてはいけない。構造上、批判することに長ける形で発展してきた。それは植民地支配が意図的な差別であるため、防衛の意味でも相手を攻撃しなくてはいけなかったからでもある。だからこそ、ポストコロニアリズムの言説を不用意に使えば、過剰な強さを伴ってしまう。

 我々は多様性の時代を生きている。つまり、それは絶対的な正解がない世界である。どんなに教養があるつもりでも、どんなに勉強しているつもりでも、無自覚にうっかり誰かを傷つけてしまうリスクを全員が抱えている。

 いまはMrs. GREEN APPLEが愚かに見えるかもしれない。ただ、いつ、自分がその場に立たされ、世界中から石を投げられるかわからない。わたしだって、この記事を書きながら、その表現は差別的と批判されるんじゃないかとビクビクしている。

 そんな社会は生きにくいにもほどがある。

 意図的にやっているのではなく、かつ、同じ失敗を繰り返していないのであれば、訂正のチャンスが担保されている方が全員にとって安心なのではなかろうか。さもなくば、リスクを避けて、なにも表現しないことがベターな選択となってしまう。そのとき、きっと、表現の自由は本当の意味で死ぬだろう。

 失敗し、多くの人から批判され、間違いを認めて、しっかりと訂正する。たくさんの人がそのプロセスを経ることで社会はアップデートされていく。我々はなんのために批判をするのか。その目的を忘れてはいけない。




マシュマロやっています。
匿名のメッセージを大募集!
質問、感想、お悩み、
読んでほしい本、
見てほしい映画、
社会に対する憤り、エトセトラ。
ぜひぜひ気楽にお寄せください!! 


ブルースカイ始めました。
いまはひたすら孤独で退屈なので、やっている方いたら、ぜひぜひこちらでもつながりましょう! 

いいなと思ったら応援しよう!