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【時事考察】能登半島に行ってきた。過疎地の切り捨ては合理的で仕方ないというのは本当なのか?
能登半島に行ってきた。ボランティアをしている人たちのお手伝いをしてきた。仮設住宅で暮らしている方々を中心としたストレスケアに関するもので、いろいろお話を聞いてきた。地元の政治家のお話を伺う機会もあった。それなりに思うところがあった。
具体的な内容はプライバシーに触れてしまう危険もあるので、どこにどんな悩みがあるのか、ここで書くことはしない。それでも、被災後、現地に残り続ける選択をした人たちの間で国に切り捨てられるという不安が広がっていることだけは書き残しておきたい。
現状、多くの人が金沢に移ったという。若い世代は仕事を求め、高齢者は子どもたちと一緒に暮らすため、必要に迫られての判断だったとか。そのため、残っている人たちの多くは他に行く場所もないし、住み慣れた土地が好きという気持ちを口にしていた。そして、こう続けるのだ。
「みんな、戻ってこないだろうねぇ」
地元の政治家も同じことを言っていた。金沢に行った人たちは戻ってこないから、復興の仕方も考えなくてはいけない。インバウンドを狙ったり、工夫はできるはずなので、と。まるでそういうものだと言わんばかりに。
一見すると、それは仕方のないことのようだけど、果たして本当にそうなのだろうか? というのも、震災前はみんな普通に暮らしていたわけで、復興とはその状態に戻すことを目指すべき。結果的に戻ってこないことはあるかもしれないが、戻ってこないことを前提にするのは変な気がした。
このことを詳しい人に尋ねたところ、それはそうかもしれないけど、将来的な絵を描く余裕がないという話だった。例えば、国から予備費で復興予算が出ていて、都度都度の修復作業を進めていくことはできているけど、補正予算と違って予算フレームが明確にならないため、大きな規模で計画を立てられないということだった。
そうなると、自然、産業が復活するイメージを示すことはできない。若い世代は不安から金沢に拠点を移したくもなるだろう。人が減っていく地域で暮らしていく不安から高齢の親を持つ子どもたちも一緒に暮らそうと提案したくもなるだろう。してみれば、戻ってこれるビジョンを示さないから、戻ってこないことが既定路線になるという循環論法が生じてしまう。
なんだかモヤモヤしてしまう。
もちろん、予備費が便利なことに異論はない。金額も使い方を閣議決定できるため、スピーディーに対応できる点は災害向きだ。ただ、それは発生直後の話であって、震災から一年近くが経っているにもかかわらず、未だ国会で能登復興の予算について与野党の壁を越えた全会一致が示されていないのは異様である。阪神淡路大震災のときも、新潟中越地震のときも、東日本大震災のときも、熊本地震のときも、北海道胆振東部地震のときも、速やかに補正予算が組まれていたことを踏まえれば、今回、それをしないことには意味が出てきてしまう。というか、すでに出ている。
復興の遅れを巡っては様々な意見がある。アクセスの難しさから仕方ない部分はあるし、実際に現場で作業をしている人たちのおかげで着実に進んでいる現実に目を向けるべきだろう。問題は大きなビジョンが提示されていないこと。そこが日本である限り、なにがなんでも元通りにしてやるという気概が国家から感じられない。
それは自民党に限った話ではなく、震災直後の1月に立憲民主党の議員から「復興より移住」という発言が出たように立場を問わず蔓延している。
背景にあるのは少子高齢化に伴う過疎地の問題。少数の高齢者しか暮らしていないような地域では商売が成り立たず、生活に必要なお店や施設を存続できない。インフラを維持するコストを賄うのも大変なので、徒歩圏で生活ができる都市部に人々を集約させようというコンパクトシティ構想の必要性は以前から言われている。
持続可能を目指すとき、それは合理的な選択であり、おそらく行く行くはどの地域もそうなっていくのかもしれない。「復興より移住」というメッセージはそんな未来を織り込んで、だったら復興は無駄になるのだから、いまから移住した方がコスパがいいという提案なのだろう。
たしかに、合理的である。でも、それは株式会社的な合理的で、株主の利益を最大化することを目指すため、利益の出ない事業はすべてカット、利益を出さない社員はすべてカット、経営のスリム化を図ろうという態度である。
正直、国家にそのアナロジーが通用するとは思えないけれど、百歩譲って通用するとしよう。その場合、「株式会社日本」の株主は国民になるはずで、それなら、被災した国民を切り捨てるって、国はいったいなにを守ろうとしているわけ? と疑問を抱かずにはいられない。予算の組み立て方がまったく別だと言われても、能登半島に資材や人材が足りていない中、大阪万博に人もお金も投入されている状況を誰が納得できるだろう。
それに対して、素直に移住すればいいじゃないかと反論があるかもしれない。環境も変わるし、人口も減っていくし、住めない地域が出てくるのは目に見えている。なのに、そこで暮らし続けるのはワガママという批判がなされている。なにも死ねと言っているわけじゃない。移住すればいいだけじゃないか、と。
なるほど、それはそうかもしれないが、移住を軽く捉え過ぎている。たしかに、言葉としては移り住むことであり、誰にでもいみはすんなりわかる。シンプルな事象である。ただ、当事者にとって、それはとんでもない大事件。本来なら様々な可能性を模索し、移住しない方法がないかを探り、メリットとデメリットを長いこと天秤にかけた末にたどり着くような結論である。ゆえに、政治がコンパクトシティをどんなに推進したくても、その有効性をいかに伝えようとも、そう簡単に受け入れられるものじゃない。
なのに、大きな地震が発生し、その場所で暮らし続けることが困難になった途端、移住案を押し付けるのはあまりにも強引。特に経済的な理由が根拠になると有無を言わさぬ強さがあり、暴力性を伴ってくる。
財務省もコスパの話をしていた。4月、財務制度等審議会の分科会で「維持管理コストを念頭に置き、集約的なまちづくりを」と提言したのだ。そこには目の前の震災ではなく、もっと先の未来に実現したい目標を達成するにあたり、この機会を活用したいという思惑が透けて見える。
たぶん、それらは論理的に考えて、正しい発想なのだろう。でも、震災で亡くなった人がいるんだよ。1月なんて、助かるかどうかの瀬戸際で苦しんでいる人たちもたくさんいた。4月にはこれからどうしていけばいいのかわからず、途方に暮れている人たちがたくさんいた。いや、過去形ではない。いまもこれからどうなるかなんて、少しもわかっちゃいないのだから。
これは100%感情の話だけど、そんな大変なことが起きているのに、政治家や官僚の理想を実現するための道具として災害を利用するのは違うでしょ! と思う。たとえ、それが国民にとってプラスなものであっても、妥当性の検証にさらされるというプロセスを経なければ、民主的とは言えないし、素朴に、フェアじゃないと感じる。
これはナオミ・クラインが指摘したショック・ドクトリンそのものである。
災害や戦争といった緊急事態が起きたとき、人々はショック状態になるため、権力者は普段だったら反対されるような法案も通しやすくなるというのだ。この本の中では、ハリケーンで壊滅した地域の復興をあえてしないことで貧困層の立ち退きに成功し、商業開発ができるようになった例などが挙げられていた。軍事国家が恐怖政治を敷くことで、市場の開放を過度に進めて私服を肥やしたというケースも紹介されていた。これらは合理的なシステムとして確立してしまっているのである。
改めて、合理的とはなんなのか考えなくてはいけない。理屈に合っているというだけで善悪については言及されていないと思い出さなくては。あくまで手段に過ぎず、その先のゴールが間違っていたとしても不思議ではない。空腹を満たすため、合理的に捕食を繰り返した結果、エサとなる動植物を駆逐し、最終的に絶滅してしまうという本末転倒は起こり得るのだ。
だが、いつからか、合理的であることは正しさの証みたいになってしまった。合理的か否かをチェックするだけで、その理屈がなんのために作られたもので、そのゴール設定が正しいのかどうかを考えなくなっている。
一応、そこに困っている人がいるんだから。そこに悩んでいる人がいるんだから。震災や豪雨という本人にはどうすることもできない災難に対して、コスパとか自己責任とか野暮なこと言うのはやめてほしい。政府は予備費でスピーディーに対応したのはとてもよかったから、次に、早く補正予算で希望を示してくれよ。やっぱり、国会の全会一致で復興を支持するって強いメッセージ性を持っているもの。現地の人たちがそこで暮らしていこうと頑張るきっかけになるもの。それが国を率いるリーダーの仕事ってもんでしょ。
地元のお寺の住職さんは神も仏もありゃしないと嘆いていた。70代の女性は、
「さよならも言えず、近所のお友だちとバラバラになってしまったの。悲しいわぁ」
と、言っていた。80代の男性はこんな恐ろしい目に遭ったのは生まれて初めてだけど、家もなにもかもを失って、仮設住宅にいつまでいられるかわからない今の方が恐ろしいよと無理に笑っていた。
コストをできるだけ抑えることが合理的なのはわかる。でも、それなら大阪万博はなんなんだよ? 東京オリンピックはなんだったんだよ? 儲かっている企業とイケイケな政治家、時代の寵児とされる有名人たちが集う場所ではコスパ度外視だけど、災害ですべてを失った人たちには節制を求めるって、バランスおかし過ぎるって。無論、両者は比べられるような対象じゃないのはわかっている。わかってはいるけど、どうしても納得はいかない。その予算のいくらかでも復興に回した方がそういうイベントが掲げている「平和」だったり、「いのち輝く未来社会」だったり、美しい理想の実現につながるんじゃなかろうか。
ただ、そうやって、そこにお金を使うならこっちに使うべきと言ってしまったら切りがないし、それぞれで頑張っている人はいるわけで、その価値を否定することもできない。問題は被災地にコスパを求め、それが合理的というだけで倫理的な課題に目をつぶってしまう残酷さにある。
なんでもなんでも、経済の問いに置き換えてしまうのはよくない。数字にすることで扱いやすくはなるけど、そこに人間がいるという実存は蔑ろにされている。1としてカウントされる人物は決してデジタルな存在じゃない。積み重ねてきた経験は無限大の情報量を持っている。
誰かを切り捨てるというのは、小数点以下の端数を切り捨てるのとはわけが違う。血も涙も流れるのだ。そのことを意識したら、被災地でしんどい思いをしている人がいるときに、コスパなんて言えるはずがない。
当然、考えるのは自由。政治家や官僚の皆さんが真剣に持続可能な社会を実現するための方法を模索してくれているというのはありがたい。でも、口に出したらダメなことってあるじゃん。少なくとも、いまはダメだって。
いまはまだまだ希望が必要だから。希望があれば、人もお金も集まってくる可能性があるから。起きていない未来を織り込んで、先読みで政治家や官僚が絶望するのは違うって。そりゃ、絶望したくなるのはわかるけど、選ばれしエリートなんだしさ、そこはカッコいい振る舞いをよろしくお願いいたします。
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