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【時事考察】「こんな可愛いのになんでAV出てるの?」と言うけれど…… マルチスキルが求められる現代社会で埋没化する個性はポルノに向かわざるを得ない。ただ、それに適応できないわたしたちはどうすればいいのだろう?
Xの仕様が変わって以来、過剰なアダルト広告にうんざりしつつ、そこで使われている言葉の紋切り型はなんだかんだで面白い。最近は「こんな可愛いのになんでAV出てるの?」というコメントがついた動画付きのポストが流れてきた。
「こんな可愛いのになんでAV出てるの?」
一見すると妥当に思える言葉だけど、ふと、本当にそうなのだろうか? と疑問が湧いた。というのも、いまの時代、可愛いを活かしてすぐに大金を稼げる仕事なんてポルノ産業以外にないようにも思えるから。
恐らく、それはステマなので、その文言のあれこれを検討するのは野暮なのかもしれないが、あえて共感を寄せるとすれば、この考え方の前提には可愛ければAVに出なくても需要があるという認識があるはずだ。例えば、こんなに可愛いんだからアイドルになればいいということなのかもしれない。
しかし、昨今、アイドルのマルチスキル化は大いに進み、歌もダンスも相当なレベルが求められている。加えて、大手事務所に入る場合、公開オーディションでデビュー前からファンをつける必要があり、みんな、SNS投稿や配信を頑張りまくっている。男女ともにビジュアルだけでは生き残れないレッドオーシャンとなっている。地下アイドルも同様で、毎日のようにライブをこなし、あの手この手で工夫に工夫を重ねている。
だったら、モデルはどうかと言えば、雑誌などオールドメディアの力が弱まる中でそれぞれがSNSなどで発信をしなきゃいけなくなっている。そうなるとライフスタイルも含めて支持を集める必要があり、美容知識や健康知識、炎上しないための配慮に至るまで、インプットとアウトプットで大忙し。これまたビジュアルだけではなんともならない。
歌手や俳優、声優、YouTuberは言わずもがな。才能がなければ始まらない。水商売にしてもお酒を飲まなきゃいけなかったり、夜遅くまで働き、コミュニケーション能力が重要になるなど成果を出すのはなかなか大変。じゃあ、一般職のビジュアル採用を目指せと言っても、学歴がなければ、大手企業の面接を受けることは難しい。
そうやって考えていくと、コネなし学なし資金なしの状態で、ビジュアルだけを武器にして、一旗あげる術って意外とない。だったら、AV女優はいい道なのかもしれない。もちろん客観的にはリスクの高さからやめておいた方がいいと言わざるを得ないが、本人の主観において、それが「可愛い」を最も効率的に現金化する手段なのは間違いない。なにせ、売春やAV新法の是非はともかく、性交渉で金銭の授受が発生するという基準で見たとき、適格プロダクションが制作する作品に出るのであれば、性風俗店勤務や立ちんぼと比べて、かなり安全であると言えるから。いや、実際はそんなことないのかもしれないが、出演を決断するに当たっての安心感は大きい。してみると「こんな可愛いのになんでAV出てるの」ではなくて、「こんな可愛いからAVに出る」が当事者の本音なのだろう。
この流れはアダルトビデオに限らない。同人でポルノ画像を販売するというビジネスが急速に拡大しているという。AVtuberなる職業もあり、顔出しはせず、イメージイラストと匿名性の高いヌード写真でけっこうな支持を集めているらしい。こうなってくると性交渉をする必要もないから主観的な安全度はさらに高くなってくる。
と、こんな風に考察しておいてなんだけど、そうは言ってもAVの世界はなんか怖いし、華やかな世界に憧れて自分自身を切り売りするよりも、地に足ついた生活を頑張る方がいいよと個人的には思ってしまう。でも、それはわたしが「可愛い」を持って生まれてこなかったからそう感じるだけなのだろう。もし「可愛い」がこの手にあったら、使わないのはもったいないと感じることは想像できる。資本主義の社会ではあらゆるものがコモディティになるわけで、容姿のよさは商品化しちゃダメなんて、さすがに筋が通らない。
要するに、様々な職業でマルチスキルが求められるようになった結果、「可愛い」や「カッコいい」など単体の魅力を最大化できる環境がポルノ産業にしか残っていないというのが現状なのではあるまいか。
本来、「可愛い」も「カッコいい」も立派な個性だった。それだけで稼ぐに値する才能だった。ところが、情報化社会が進むにつれて、その価値は相対的に埋没。自然、評価されやすいところを目指し、アダルトコンテンツの出演において需要と供給がマッチしたんじゃないかと考えられる。
ただ、これもブルーオーシャンなのは最初だけだろう。「可愛い」も「カッコいい」もすぐに飽和してしまうから、この世界でもあっという間にマルチスキルが求められるようになるのは目に見えている。端的に言えば、SNSや配信によるネット営業の必要性が加速度的に増加していく。炎上が売り上げに影響するようにもなるし、歌やダンスなどその他の才能もなければ目立てない時代がやってくるかも。つまり、アイドルや俳優、声優、YouTuberと同じような道をたどる可能性は十分にある。
結局のところ、スマホの普及でコンテンツに誰もがいつでも自由にアクセスできるようになったことで競争率は激化せざるを得ないのだ。そうなるとアダルトコンテンツじゃなかったとしても、それぞれの業界で個性を武器にするため、欲望を刺激して訴求力を高めるという意味でのポルノ化はますます進行していく。
これはすでに多方面で指摘されていることではあるけれど、障害者に対する感心を集めるために過度にお涙頂戴な演出を行う感動ポルノは古くから行われてきた。動画だと暴力やお金の話にフォーカスを当てて刺激的なコンテンツが再生数を稼ぎやすい。飲食も明らかに不健康な背徳飯や手を抜けるところまで抜いた料理が耳目を集める。ライトノベルや自己啓発本のタイトルに並ぶ言葉も年々強くなっている。政治家の発言もどんどん過激になってきている。THE BLUE HEARTSの『TRAIN-TRAIN』さながら「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく」光景が各所に見られる。
このことを逆に考えると我々は知らず知らず、相当に刺激的な情報に晒されていると解釈することもできる。なんとなく閲覧しているSNSで無意識にポルノ化した情報を摂取している。その都度、こちらの思いとは裏腹に脳がなんらかの反応をしているとしたら、意図せず、疲労が蓄積するかもしれない。そういや、最近、疲れやすいなぁ。これって、なんだかバカらしいよね。
じゃあ、デジタルデトックスをしようという話もあるけど、ぶっちゃけ、仕事もしなきゃいけないし、庶民にそれは難しい。だって、スマホなしで楽しく過ごすレジャーは軒並みお金がかかるから。
正直、スマホは現代の「パンとサーカス」なんだろうなぁと感じる。上司や取引先からのメールやLINEに答える形で食い扶持を稼ぎつつ、そのストレスは他人が殺し合ったり、自分を犠牲にしている姿を鑑賞する形で発散している。そんなバーチャルな世界で生きるのに忙しいから、社会のことを考える余裕なんてなくなってしまう。
そりゃ、政治的関心を持てるに越したことはないけれど、こうなってしまった以上、すぐに価値観を根底からひっくり返すのは現実的じゃない。だったら、個性を持った人たちがポルノ化をいとわず、大金を得るため頑張らなく方向を肯定してもいいような気がしてくる。映画『グラディエーターII 英雄を呼ぶ声』で剣闘士が10回勝てば自由になれるという言葉を信じ、過酷な戦いに挑み続けたように。
その約束は果たされないかもしれない。ただ、勝ち続けた個性は多くの人の心をつかみ、腐ったルールを作った連中を倒すだけの力を持つに至るはずだから、最終的に社会を変えてしまえばいいのだ。
永井荷風が芸者遊びに向かったきっかけは大逆事件だったという。
1910年、明治天皇の暗殺を計画したとして幸徳秋水をはじめとする社会主義者や無政府主義者が26名起訴され、24名に死刑判決が下された。その後の研究で明らかな冤罪事件とされている。
これを受けて、作家たちは政治的な言論を発表していたら政府の都合で殺されかねないと恐怖に慄き、それぞれが今後の態度を決めざるを得なくなった。
石川啄木は強く抗議しなければならないと奮起し、朝日新聞の文芸欄に政府を非難する評論を載せようとするも却下されてしまう。なお、このとき文芸欄を主宰していた夏目漱石は啄木の味方になってあげられなかったことを後悔し、後に『こころ』を執筆するに至ったと高橋源一郎が『日本文学盛衰史』の主張している。
なんでも、Kのモデルは石川啄木であるというのだ。突拍子もないアイディアに聞こえるけれど、高橋源一郎は小説内の情報から、
①イニシャルがK
→啄木の戸籍上の名前は工藤一
②漱石が裏切った相手
→大逆事件に対する抗議をサポートしなかった
③坊主の息子
→啄木の父親は曹洞宗日照山常光寺の住職
④姓が急に変わって友人を驚かした
→小学生のとき、それまで籍を入れてなかった両親が籍を入れ、啄木の苗字は石川に変わった
という条件を導き出して、これらすべてを満たす漱石まわりの人物は石川啄木しかいないとシャーロック・ホームズ的な推理を披露している。
いずれにしても、夏目漱石の『こころ』は1914年に書かれているので、大逆事件の影響がないとは考えられない。抽象的な表現が多く、物語も象徴的なのは言論弾圧をかいくぐるための工夫だったのだろう。それが未だに高校の現代文の授業で読み継がれていると考えれば、日本人のメンタリティに広く根差していると言える。
さて、そんな大逆事件に対して、永井荷風も大きなショックを受けたという。明治以降、自分たちが作り上げてきた文化は本当に正しかったのか、深く反省し、日露戦争の開戦を知り、幸福なる感激を覚えていた自分が情けなくなった。戦争とは国家同士の戦いであると誤解し、市井の人々が死んでいく現実が見えていなかった己の蒙昧さを恥じた。
幸徳秋水らの死刑判決が下された1911年(明治44年)について、荷風はこう記している。
明治四十四年慶應義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知った事ではない──否とやかく申すのは却て畏多い事だと、すまして春本や春画をかいていた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立ったのである。
自分の命が惜しくて、大逆事件に抗議もできない人間が文学者を名乗るべきではないと、以来、下民であり続けようと決意したという。江戸末代の戯作者や浮世絵師がペリーがどうとか、尊王攘夷がどうとか、政治的な問題は知らんぷりして、エロ本やエロ画像の作成に勤しんでいたように荷風はそういう作家を目指し始める。芸者たちと世間ずれした仮初の平和を謳歌することに決めた。
ところが大正時代に入り、日本を取り巻く暴力的な空気は荷風が拠り所としていた芸者たちも襲った。東京各地の芸者が即位式祝賀祭を彩るため、華やかな衣装で二重橋に練り出し、万歳を連呼する催しが開かれたときのこと。
行列と見物人とが滅茶々々に入り乱れるや、日頃芸者の栄華を羨む民衆の義憤は又野蛮なる劣情と混じてここに奇怪醜劣なる暴行が白日雑沓の中に遠慮なく行われた。芸者は悲鳴をあげて帝国劇場其他附近の会社に生命からがら逃げ込んだのを群集は狼のように追掛け押寄せて建物の戸を壊し窓に石を投げた。其の日芸者の行衛不明になったものや凌辱の結果発狂失心したものも数名に及んだとやら。然し芸者組合は堅くこの事を秘し窃に仲間から義捐金を徴集して其等の犠牲者を慰めたとか云う話であった。
こうなってみると江戸時代に想いを寄せて、現実逃避している場合ではなくなってくる。
目に見る現実の事象は此年月耽りに耽った江戸回顧の夢から遂にわたしを呼覚す時が来たのであろうか。もし然りとすればわたしは自らその不幸なるを嘆じなければならぬ。
この不幸なるを嘆じ、なにもできない自分の弱さを引き受けるところから永井荷風の文学はリスタート。やがて、日本文学史上に燦然と輝く傑作『濹東綺譚』を執筆するに至る。
あらゆるものがポルノ化していく現代で、我々になす術はないのかもしれない。ないのかもしれないが、その流れに従わず、傍流となり、孤独に現実逃避するというのもひとつの手かもしれない。時代の趨勢に適合し、ポルノ化で成功していく人たちを横目に不幸なるを嘆じ、自分の弱さを引き受ける。いま、この瞬間にはなんの価値も生み出せないかもしれないが、歴史というマクロな視点に立ってみれば、いずれ、未来の誰かがそこに意味を見出してもらえるかもしれない。わたしが永井荷風の書いたものを読み、感銘を受けているように。
たぶん、一人一人、異なる戦い方があるんだと思う。そう考えれば、パッとしない毎日もわたしだけのスペシャルに感じられてくる。うん、これでいい。いや、これがいい、と。
マシュマロやっています。
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