【読書コラム】沖縄の戦争と戦後を21歳が膨大な知識でポップに描く意欲作! - 『月ぬ走いや、馬ぬ走い』 豊永浩平(著)
大学時代の友だちとやっている恒例のzoom読書会が今月もあった。課題図書は豊永浩平さんの『月ぬ走いや、馬ぬ走い』だった。
1ページ目から言葉がギュッと詰まっていたので驚いた。それは意味的なことではなく、ビジュアル的なことであり、要するに改行がなくずらずらっと文章が続いていくのだ。
もしやと思って、ぺらぺらっと先の方まで確認してみた。ざっと見ただけでも、章が変わる限り以外に改行を用いてはいないようだ。なんなら、章が変わるときの文末に句点がないことから、本当はすべてをつなぐつもりだったようにも推測される。
これはかなり骨太な作品みたいだと身構えた。前評判で沖縄の戦争と戦後を描いていると聞いていたので、ゼーバルトの『アウステルリッツ』みたいな小説なのではないかと直感した。これは写真を交えてだけど、やはり区切りのない文章でアウステルリッツという街が抱える戦争の記憶を多重に浮かび上がらせていた。
だから、ちょっと緊張感を持ちながら読み進めていったのだが、意外にも全体はポップな仕上がりですいすい読むことができた。とはいえ、世界文学の流れを引いていないわけではなくて、前述の通り、章が変わるタイミングで句点がないのだけれど、数行の空白の前後で語り手は変化していて、そのシームレスな切り替えは「意識の流れ」を彷彿とさせる。
ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』だったり、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』だったり、モダニズム文学に触れたとき、我々がまず最初に「これはヤバい小説だぞ」と実感するのは「意識の流れ」だと思う。少なくとも、わたしはそうだった。句点を挟まず、主語を明示せず、一文の中で語り手が変わってもいいなんて!
例えば、妻視点で話が始まっていたのに、気づいたら夫の意見になっていたみたいな。まるで夫婦が夫と妻の二人の人間で構成されているユニットではなく、夫婦というひとつの主体として立ち上がってくるような書き方で衝撃を受けた。なぜなら、これを拡大していけば、国家だったり時代だったりはたくさんの個人の集合体ではなく、たくさんの個人を孕む大きな主体として捉えることができるから。
そう考えると沖縄の戦争と戦後を描くにあたって、誰か一人に焦点を当てるのではなく、複数の人たちの「意識の流れ」で全体像を掴もうとする試みは理に適っている。
しかも、その複数の人たちのつながりは霊的なものからスタートし、どうやら血縁関係や因果によって結ばれているらしいとわかってくるにつれて、ラテンアメリカ文学の雰囲気も漂ってくる。ただ、文庫化で話題のガルシア=マルケスの『百年の孤独』のように同じ名前が連発したりはしないので、とてと読みやすく、そこは安心。
さらに面白いのは章が変わるたびに時間だったり、空間だったり、好き放題に飛んでいくこと。一応、どこで誰なのか明かさられるので迷子にならない程度には親切だけれど、かなり実験的な書き方にはなっている。
これで思い出すのはカート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』で、第二次世界大戦のドレスデン爆撃を軸にしつつ、時間から解放された主人公がトラルファマドール星の宇宙人に誘拐されたり、妻の死だったり、ナチスの捕虜になったり、自らの暗殺だったり、劇的な出来事をランダムに経験していく。それらを通して、人生における「そういうものだ」("So it goes.")が見えてくる構造になっていた。
こんな風に過去の作品をあげていくとキリがないのでそろそろやめるけれど、なんというか、『月ぬ走いや、馬ぬ走い』は約150ページの短い小説ながら、二十世紀の世界文学史を網羅してやるって意気込みに満ち満ちていた。そして、そういう衒学的態度はテクニカルな部分だけでなく、内容にも及んでいて、21歳の作者が絶対に経験していない出来事を参考文献を通して再現しようという気概を発揮しているのだ。
リストには島尾敏雄や中野重治、立花隆といった名前も並んでいた。占領下における女性たちのあり方を取材した書籍も載っていた。これらを踏まえ、21歳の男性が現代小説を書いたという事実は素直に度肝を抜かれる。なにせ、どれも重たい出来事なので、当事者性が重視される昨今の空気において、たとえフィクションであっても、現実の問題を扱うのは確実に骨が折れる。
ゆえに、多くの作家(特に若手)は歴史的問題を執筆テーマから外す傾向がある。それは単に失敗しそうという話ではなく、自分なんかが取り上げちゃいけないんじゃないかという謙虚さの表れなんだと思う。ただ、そのせいで現代小説は個人的な話になりがちで、「わたしの生きにくさ」をもう描くかで個性を披露する競技のようである。
もちろん、これはこれで魅力的だし、現実問題、ネットで簡単に批判がされてしまう状況において、そういう物語がいまに適しているのはわかる。例えば、作者の豊永浩平さんは沖縄生まれ、沖縄育ちという文脈では沖縄の当事者だけれど、男性という文脈では女性の苦しみについて部外者となってしまう。このように個人がすべての問題の当事者になるのとは不可能で、当事者性を重視したとき、個人的な物語を描くしか選択肢はないのである。
でも、それは書き手の都合であり、わがままな読者としてはもっと大きな物語が読みたいという欲求が湧いてしまうのも本当で、『月ぬ走いや、馬ぬ走い』はそこを見事に満たしてくれたから尊さを感じる。
とはいえ、大きな物語は書こうと思って書けるものではない。それを書くための方法を新たに発明かは必要がある。豊永浩平さんはそれに挑戦し、見事、成果を上げたからこそ凄いのである。
なお、その方法というのが衒学的手法であり、様々な知識をこれでもかって並べることで重たい出来事から重さを取り除き、2024年の21歳男性が扱っても違和感のないテイストに仕上がっていた。
文学史からの引用が多いのは前述の通りだけど、それに加えて、ヒップホップだったり、漫画だったり、ホラー映画だったり、ポップなカルチャーも多分に網羅していた。沖縄問題の質量もそれらと同じぐらい軽く加工され、ヴェイパーウェイブの要領で鮮やかに切り貼りされていた。
正直、31歳のわたしとしては「そんなことしていいのかしら……」と引いてしまう部分もある。つい、沖縄の問題はもっと慎重に扱うべきと反射的に考えてしまうから。でも、その慎重さによって、語ることを避けてきた先にZ世代はいるわけで、そんな彼らが歴史を知ろうとすること、歴史を語ろうとすることを非難する権利が自分にあるとは思えない。結果、気付かされてしまう。わたしたちは慎重だったのではなく、臆病なだけだったのでは? と。
今後、豊永浩平さんがどういう小説を書いていくのか楽しみだ。あえての軽さで大きな物語が作れることを証明してみせたからこそ、次はそこに重さを足していってほしい。『月ぬ走いや、馬ぬ走い』の組み立て方が見事だったのは疑いようもないけれど、各パーツは工業製品のように紋切り型で、読みながら「まさかこんな展開になるとは!」という飛躍を感じられなかった。わがままな読者としてはそういう逸脱を期待せざるを得ない。
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