25 オルコット再来日と蜜月の終わり 拒絶された「仏教十字軍」|第Ⅱ部 オルコット大菩薩の日本ツアー|大アジア思想活劇
オルコットの日本再訪
最初の来日から二年後の明治二十四(一八九一)年十月末、神智学協会会長ヘンリー・スティール・オルコット大佐は再び日本を訪れた。しかし二年前、「十九世紀の菩薩」とまで称えられ、熱狂的な歓迎を受けた光景はそこに再現されることはなかった*64。
信じがたいことだが、セイロンの仏教関係者はオルコットの訪日について日本仏教界に連絡することを忘れていたという。また折悪しく仏教界は名古屋で起きた大震災の救援活動に忙殺されており、不意に来日した老大佐を歓待する態勢も整っていなかった。いやそんな理由は言い訳に過ぎないだろう。重要なのは、日本仏教のオルコットや神智学に対する信頼そのものが、この二年間で大きく揺らいでいたことだ。
十四ヶ条の信仰条規
しかし、日本側の戸惑いなど知るや知らずや、オルコット自身の意気込みは前回の訪日をはるかに上回っていた。彼は衆生への慈悲、八正道、五戒、輪廻転生の思想、因果の理など南北仏教を一貫する(と彼が考えた)『十四ヶ条の信仰条規』*65なるものを携えていた。オルコットの意図に触れる前に、そのさわりの部分のみ見てみよう。
(中略。ここから因果応報説、四諦八正道など比較的オーソドックスな仏教修行論が展開されている。そして最後の第十四条。述べられているのはカーラーマ経(増支部三集)などで説かれるブッダの金言であるが、そこはかとなく神智学徒の矜恃がダブっているようだ。)
国際仏教徒連盟の設立を目指す
オルコットはこの十四ヶ条に基づいて『国際仏教連盟(International Buddhistic League)』を設立し、南北仏教合同の海外布教を開始しようと意気込んでいた。「相共に真理の大敵に当り普く完全なる信仰の回復を計るには此に偉大の十字軍を造出せざるべからず。而して我々の組織せる十字軍はマホメット教徒に向かって攻寄するものにあらず、ヤソの古墓を取返さんとして起こしたるものにあらず、正しく是れ真理を破らんとする大敵に向かって起こし既頽の信仰を回復せんと欲するの一大軍隊なり……」オルコットが日本の仏教徒を奮い立たせたアジテーションは、口先じゃなく大マジであった。
そもそも彼の『国際仏教連盟』計画は明治二十二(一八八九)年の訪日を通じて構想されたものだったという。それは同年五月初頭、本願寺との提携によって京都に神智学協会日本支部(らしきもの)が設立された晩のこと……。
私が幹部らを代表した本願寺公認による、神智学協会(T・S)地方支部を立ち上げた(……いや立ち上げたとはとうてい言えないのだが、とまれ加盟の儀式をひととおり執り行った)日の晩のことである。その一派にはその種の実際的な仕事の前例が無いということと、いくつか提示された明白な理由に、私は納得しないわけではなかった。
ここでオルコットは、アジア仏教諸国における自らのユニークな立場を改めて認識した。そしてその認識は、彼にひとつの素晴らしい構想を閃かせたのである。
神智学協会の内紛──覚醒と憎悪のネットワーク
日本で仏教各宗派間のあくなき争いを目の当たりにしたオルコットは、アジア仏教徒の大同団結を成し遂げるこそが、「あらゆる派閥と社会的な共同体と無縁の外国人」である自らに課せられた歴史的・宗教的使命だと確信するようになったのだ。そして彼は『国際仏教連盟(International Buddhistic League)』構想のために、神智学協会会長の職もなげうとうとしていた(オルコットを仏教復興運動の指導者として〝独占〟したいと考えていたダルマパーラにとっても、それは歓迎すべき選択だったろう)。
ただしこのオルコットの言明は額面どおりには受け取れない。ブラヴァツキーがインドから「追放」されて以来、アディヤールの神智学協会を仕切るオルコットと、ロンドンに居を構えたブラヴァツキー、その周辺にうごめくヨーロッパ・アメリカの協会幹部の間では、泥沼の権力闘争が続いていたからだ。
一八八九年五月、ダルマパーラは日本からセイロンに戻る途中、上海から乗り換えたカレドニア号の船長と親しくなった。船長は自分がブラヴァツキーの友人だと語り、HPBを「自然の奇跡」と賞賛した。その一方で彼は「オルコット大佐は彼女を嫉み、インドから追放させるように仕向けたのだ」とまことしやかなゴシップを持ちかけたという。その頃オルコット大佐に傾倒していたダルマパーラは当然反論し、それから両者は口も利かなくなったというのだが……。
神智学協会は知識人の間で世界的な「覚醒のネットワーク」を築いていたが、それは時として協会幹部の保身と自己顕示欲をブレンドした気まぐれな霊界メッセージに振り回される、相互不信と憎悪のネットワークにも変貌したのである。一見能天気なオルコットは、自らの会長辞任宣言がもたらした反響についてこう述べている。
オルコットの辞任宣言は、結果的にブラヴァツキーを牽制する政治的ブラフの役割を果たすこととなった。そして結局、彼は自らの意志を変えたのだ。一八九一年五月八日にブラヴァツキー夫人が急死すると、神智学協会内のイニシアティブ争いはさらに激化した。オルコットは最終的に、ブラヴァツキーの後継者であるアニー・ベサントを抱き込むことで事態を収拾し、神智学協会会長の地位を守るのであるが、その経緯をここで詳しく述べる必要もあるまい*67。
日本で拒絶された「仏教十字軍」
話を戻そう。突然の来日だったとはいえ、オルコットはこの年の春すでに『国際仏教連盟(当時は万国佛教会と訳されている)』の組織について日本の諸宗高僧に向けた打診文を送付していた。彼が南北仏教徒共通のプラットフォームとして制定した『十四ヶ条の信仰条規』はセイロンのスマンガラ大長老らの協賛を得たほかビルマやチッタゴン(後にバングラデシュとして独立する東ベンガルには仏教徒コミュニティが存在する)の高僧からも署名を集めていた。オルコットは当然、北伝大乗仏教を奉じる日本の仏教徒も、これに応じるものと考えていたようだ。甘い! 甘すぎる。
彼が期待を寄せた両本願寺は『十四ヶ条の信仰条規』への署名をにべもなく拒否した。阿弥陀仏への帰依と他力信仰を説く浄土真宗が、四諦八正道といった仏教のオーソドックスな修行論を踏襲したオルコットの信仰条規に賛同できるはずもなかった。結局オルコットの気宇壮大な仏教十字軍の呼びかけに、賛意を表したのはほんの一部の有志者にとどまった。
「もし私(オルコット氏)が来日しこの地に居を定めるのなら、必要なだけの支部と希望するだけの何千という檀家を紹介しよう。」本願寺の幹部が口走ったという、盲目的なオルコット信奉はすでに過去のものとなっていた。いったい日本仏教がオルコットに求めたのは、耳障りのよいキリスト教批判と、教義内容には踏み込まない手放しの仏教賛美だけだったのだろうか。
オルコット滞在中の待遇も頗る冷淡で前回に比べれば雲泥の差。さすがに一部の仏教新聞では仏教復興の恩人への不義理を憤慨する記事が掲載された。オルコットは真宗を除く日本仏教各宗派の僧侶による何の実効性もない『十四ヶ条の信仰条規』への署名(浄土真宗の両本願寺は最後まで署名を拒否した)を手にしただけで、十二月十日、失意のうちに日本を発ったのである(まぁ、彼の回想録を読む限りそれほど落ち込んでいるそぶりは感じられないが……)。
オルコットが夢想した『国際仏教連盟』はなんら目立った活動も残すことなく雲散霧消した。その理想が、形を変えてもう一度称揚されるには、彼の死後、さらに数十年の時を待たねばならなかった。
神智学は仏教なのか? 揺れ動いた日本仏教
オルコットを「十九世紀の菩薩」と持ち上げ、二年後には手のひらを返したように冷遇した日本の仏教徒。ここで彼らの不義理を嘆いたり、「白人」仏教徒のパブリック・イメージを利用して破邪顕正を気取った明治という時代の軽薄さに毒づいてみても始まらない。オルコット二度目の来日が寂しい結果となったのには、それなりの理由があった。要するに「西欧で流行している神智学ははたして『仏教』と言えるのか?」という大問題に、この頃までに一応の決着がついてしまっていたのだ。その経緯を説明するために、次章ではまたひとりの白人仏教徒にご登場願いたい。
註釈
*64 オルコット再来日の顛末と「十四ケ条の信仰条規」については〝OLD DIARY LEAVES:FOURTH SERIES 1887-92〟H.S.OLCOTT, The Theosophical Publishing House, Adyar, 1910, p397〜に詳しく記されているほか、『仏教』三十三号、一八九一年、四十三頁にも詳しい記事が載っている。オルコットが十一月八日に京都懇親会で行った演説速記は『浄土教報』九十二号、一八九一年十二月五日に掲載。オルコットは十月二十八日にアメリカから横浜に到着し、十一月十日には神戸からインドへの帰途に就いた。
*65 『十四ヶ条の信仰条規』(Fundamental Buddhistic Belief)
初出:『仏教』No33(1891, P43)訳語が分かりにくいうえ、原文と照らし合わせると首をかしげる訳もあるがそのままにしてある。【 】内は訳語を筆者が補ったもの。原文は〝OLD DIARY LEAVES:FOURTH SERIES 1887-92〟H.S.OLCOTT, The Theosophical Publishing House, Adyar(1910, P415)に掲載されている。
*66 〝OLD DIARY LEAVES〟の下訳を小澤麗子さんにお願いした。慎んで御礼申し上げます。
*67 ブラヴァツキー死去前後の神智学協会の内紛とその背景については『神秘主義への扉 〜現代オカルティズムはどこから来たのか〜』ピーター・ワシントン著、白幡節子/門田俊夫訳、中央公論新社、一九九九年、一二四頁以降に詳しい。