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摂食障がいの克服297【みんないってしまう】

 こんばんは。

 知人の最後のお別れに行って、帰宅しました。

 この数年で何人か見送ってきました。
 親友もそう。なのに、私は親友に最後にお別れに行った際、最初の対面で涙が出なかった。目の前にいる親友が、いつもラインしてたり電話していた親友だって信じられなかった。

 あの仕事でボロボロで(昨日書いているような時期のころ)、何かの心が死んでしまっていたことも要因だと思った。なぜ、会いに行けなかったんだろう、そう何度も悔やんだのに。目の前の光景が信じられるまでに脳がもう色々止めてしまって無理だった。ごめんね。

 それでも何度も思ったことは、会いに行けなかった、その余裕のなさに。今も悔やんでいます。

 今お墓に行くと、もうずっと泣いてしまって、人間に戻ってきたのかもしれない。(人間らしくなかった時期でも、親友のことは勿論大好き)

 そうだった。親友が亡くなってから、亡くなったことを誰にも1ヶ月以上言えなかった。本当になってしまう気がした。1ヶ月経ち、周りに言わざるを得なくなって、伝えた。親友に対する愛が足りないんじゃないかって、今思ってしまったけど、愛は今も十二分にある。

 今日の知人とのお別れは終始、涙だった。

 人は死ぬものだってわかっていながら、なんて酷なんだろうと思って。
 昔の写真を見ては、なんて輝いているんだろうって思って。何十年前のその笑顔を写真で見て、何だかすぐにその風景を想像できました。

 ところで、これまで下記を私の固定記事していたんです。

 昨日の投稿を固定記事に設定させて頂ければと思って・・
 
 お金を失ったことなどは、当初の投稿にも書いていたのですが、あり得ない金額でもあるので、馬鹿な私への戒め(ではなく)私の自己紹介にさせて頂ければと思って。

 どんなパワハラにも
 どんな苦境にも、私には最愛の人がいたから頑張れた。

 そんなきれいなことばかりではなく、本当にきつかった。

 亡くなった方の共通の知人と話せば、
 ”感謝ばかりでしょう?””ありがたいなあ”
 と言われる。そこに私の気持ちがない。

 何を感謝、何がありがたい?

 無論息子が今元気でありがたい。

 けれど、そこに私の気持ちが全く存在しない。
 仕事だけして心も体もちぎれそうで、誰の心にもいなかった私が、本来したかった息子のそばにいるっていう行動を放棄せざるを得なくてその際に、一緒にいた人たちが幸せで、そこに”感謝ばかりでしょう”って言われたら、私には感謝はあっても、すみっこというか、存在すらお金を稼ぐ要素以外ゼロです。それも月に20万。たったそれだけ。

 私という魂は生きてないし、もう死んでるも同じ。もっと酷です。
 自分は体調と精神の不調のみ抱えて働いていた、その結果拒食症・過食症、生死をそれこそさまよったわけで。

 今日も眠剤飲みました。
 早めに寝ないとまた、病んでしまうので。

 昨日書きたいことを書かせて頂いたので、これまでの固定記事ではなく、そちらを固定記事にさせて頂ければと思って。

 バク転も練習します。また英検の勉強も続けているながらに、コアは、こういうしんどいところにあると、今日、改めて思ったこともあったので。

 読んでくださり、ありがとうございます。

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