#13 切磋琢磨した相談室の親友、別々の高校へ 【7年間の不登校から大学院へ】
7年間の不登校を経て、やっと「ここなら通えそう」と思える学校環境に出会った私。ただ、その通いたい私立高校に行くには受験を乗り越えなければなりませんでした。
アルファベットも書けないほど、小学生レベルの学力で止まっていた私は、試験日まで3ヶ月という非常に短い期間で受験勉強に励みました。
そんな受験勉強の日々を綴った前回の記事はこちらから。
今回の記事では、高校から合格通知とともに特別進学コースへの入学案内が同封されてきたこと、相談室で親友のAちゃんと送り合った卒業ソング、中学校最後の卒業式にはみんなと同じように出席した話などを書いていきます。
合格通知に同封されていた特別進学コースへの案内
受験した高校から1通の封筒が届いた。
【重要:入学試験結果同封】
その文言が封筒に印字されていた。
ドキドキしながら自分で封を切った。
結果は合格だった。
合格通知が届いた日、ちょうど塾の授業がある日だったから、すぐさま合格通知を手に持ってそのままE先生に報告しに行った。
階段を駆け上がって塾の扉を開けると、入り口のすぐ脇に座ってパソコンをしていたE先生が、どうだった?! と言わんばかりの表情で私の顔を見ていた。
「合格しました!」と言うと「ヤッター!!」と両手でバンザイして笑顔満開になった。
先生はバンザイをしたあと、安心が襲ってきたのか安堵の表情で胸を撫で下ろして、全身脱力したかと思うと膝に両手をついて「よかったぁ~」と息を吐くように言っていた。
いつもの席まで行って封筒ごと合格通知を見せた。
「本当によく頑張ったなぁ」なんて褒めてもらいながら、何よりも頑張れたのはその先生のおかげだと感謝の気持ちでいっぱいだった。精一杯その気持ちをE先生に伝えた。
そして私は合格通知に同封されてきたあるオマケの紙をE先生に見せた。
それは「貴殿は筆記試験の結果が優秀であったため、特別進学コースの入学基準を満たしております。この学部に入学を希望される場合は……」という、まさかの学力レベルが上の学部に入学できるというものだった。
でも私は迷っていた。
なにしろギリギリのレベルで受験をして無事に合格できたものの、受験科目以外の教科などに関しては学力レベルは小学生のまま、さらに学校に通えるかどうかという大前提で悩んでいる私にとって、入学後に授業や周りのレベルについていけなくなってしまうのではないかという不安があったからだ。
でも、すかさずE先生は「この3ヶ月での伸び代や学習意欲、そして習得スピードを見ていると絶対についていける。しかもレベルが上の教育を受けれるという選択肢が目の前にあるのなら、それを取らない手はないんじゃないか」とハッキリと答えてくれた。
また、「人間は環境の生き物で、自ずと周りについていこうとするはずだからその力も信じてみて」といったことをアドバイスしてもらい、両親も同意見だったので、私は特別進学コースへの入学を決意した。
中学校最後の期末テスト
中学校最後の数学の期末テストでは、私は97点を取った。
このテストは公立高校の受験レベルに合わせた内容で、さらに学年での平均点も88点と低かったため、数学の先生からは「このテストでこの点数が取れたことは自信を持って大丈夫。本当によく頑張った」と言ってもらえた。
私を支えて教えてくれた多くの先生たちには今でも頭が上がらないほど感謝している。
そして何よりも私を見捨てずに応援してサポートしてくれた両親には、今後いつまでも感謝してもし切れない。
高校入学まで
無事に高校受験が終わってあとは中学校の卒業を待つのみになった。
ただ、受験に受かったとはいえ、まだ十分な学力が備わっていなかった私は受験勉強時には飛ばしていた項目を塾で学び直した。さらには高校で余裕の持ったスタートを切れるようにと、高校で最初に習う重要な英語の構文(SV、SVC、SVO、SVOO、SVOC)をE先生から引き続き教えてもらった。
これが後々、高校生活だけではなく大学院まで続いていく英語学習にとって非常に重要な役割を果たすことになった。
そんなふうに受験が終わっても塾にも通いながら、中学卒業の日まで変わらず相談室にもAちゃんと毎日、通い続けた。
そんな卒業直前の最中、急に担任の先生から「最後のクラスでのホームルームを図書室でやるからおいで」と誘われてそれに参加した。
そこでは1年間 担任の先生が撮り溜めていたクラスの様子が、映像と写真を交えながらスライドショー形式で映し出されていて、私が相談室に通い続けていた日々と、ほぼ同じ日数を教室で過ごしていたクラスメイトたちの姿が映っていた。
同い年だけど、全く異なる日々。
全く異なる思い出。
全く異なる経験。
教室でカメラに気が付いて笑いながらカーディガンの袖で顔を隠して照れる子、給食の時間に牛乳を一気飲みしているムードメーカーの子、合唱コンクールに向けて放課後にみんなで練習している真剣な表情、体育祭のクラス対抗で勝ってそれぞれがガッツポーズをしながら抱き合っている姿、そして普段の教室でふざけて笑っている様子などが次々に映し出されていた。
どれもこれも、私は経験しなかった日々だった。
でも、みんなと学ぶ場所が違っても、通う場所が違っても、私にだってその日々と同じだけ、ちゃんと経験した日々がある。進んできた道がある。
そのビデオを見ている担任の先生も、クラスの子たちもみんながすすり泣いていた。
私はいっさい泣けなかったけれど、やっぱりこの学校のこの教室には自分は通うことはできなかっただろうなと、その時でも思った。言うまでもないけれど誰が悪いとか、誰のせいとかではなく、自分には合わず通えなかった、それだけ。
新しい高校生活では、そんなふうに思い出をたくさん作ろうと、振り返って泣けるような良い思い出をたくさん作ろうと、冷静にただ思っていた。
そのときそう思えたのは、自分に合った学校環境にやっと出会えたからだろうか。
自分に合った環境
受験から高校入学までの時期を振り返ってみて、当時の心境として一番大きく抱いていた感情はやっぱり楽しみの気持ちでした。
閉鎖的で暗く堅苦しい小中学校とは対照的な、解放的で自由な校風や校舎に通えること。そして新しい友だちや先生との出会い、あの日に見た同年代の子たちと同じように、自分も周りの子たちと仲良く楽しく、思い出がたくさんできたら良いな、なんて気楽に考えて、心が軽くなっている自分がいました。
学校に対してそんな気持ちを抱いたのは、生まれて初めてだったかも知れません。
これらのことをいま振り返ると、私にとってはやはり環境が持つ影響がとても大きかったのだと感じます。
解放的で明るい空間、少人数で落ち着いた雰囲気。
決まった量を短時間で食べ切らなければならない給食ではなく、量も時間も自由が効くお弁当。
これらの要素が私にとっては、学校に行ける or 行けない理由に大きく関係していました。
もはや親友となったAちゃん
中学3年生の5月頃から同じ相談室に通って毎日一緒に勉強をして、不登校という現実に向かい合っていたあのAちゃんとは、もはや親友になっていた。
お互いに進路が違ったため、高校生になったらあんまり会えなくなるね、なんて言いながら近所の公園で、まだ咲き切っていないけれど蕾でふっくらとした桜を見ながら二人でお花見団子を食べた。
そのとき撮った写真は今でも残っている。
当時、お互いに音楽を聴くことが好きだったので「卒業式の前日、お互いに曲を送り合おう」なんて、今から考えたら恥ずかしいような約束をどちらからともなくしていた。
そのアイデアで、私たちはお互いにCDと歌詞カードを用意して、卒業式の前日に手紙を添えて送り合った。
私がその子に送った曲は持田香織さんの『to』という歌。
Aちゃんが私に送った曲はサンボマスターさんの『希望の道』という歌だった。
私がAちゃんにその歌を送った理由は、「友だちっていいなって笑いながら、夢の先なんかを語らいましょう」という歌詞の部分が特に好きだったから。
実はAちゃんが不登校になった原因はいじめで、話を聞いていても実際にされたいじめの内容はひどいものばかりだった。だからこそ私はこの曲を選んだ。
友だち、なんて軽く言わないでよと思われてしまうかも知れなかったけれど、どうしてもこの曲を通して私の気持ちを伝えたかった。
そしてAちゃんからもらった曲である『希望の道』は、たしかに私にとっての希望の道となった。
私はこのあとに送る高校生活でいわゆる “いじめのターゲット”になってしまう時期がくる。そのとき、なによりもAちゃんに送られたこの歌の「裏切られても、裏切るなよ、本当の自分を裏切るなよ」という歌詞に支えられることになるのだ。
Aちゃんは少し離れた高校へ進学したので、中学卒業後には会う回数は減ってしまった。
だけど、大学生になるまで定期的に必ず会ってはたくさん遊び、そして何よりも励まし合った。お互いに励まし合って、また数ヶ月に一度は必ず会ってその都度、成長した姿を互いに見る。努力家でいつも勉強を頑張っているAちゃんに会うたびに刺激をもらって私も頑張ろうと思えた。
私にとって、中学の相談室で「切磋琢磨」という言葉の本当の意味を、身を持って体験させてくれたAちゃんの存在は私にとってとても大きなものだった。
互いに負けじと常に高め合って励まし合えるライバルのようであり、なんでも話せてバカ笑いもできる親友のような存在。
Aちゃんと励まし合って、ときには喧嘩してぶつかって、悩んでもがいた日々のなか2人でたくさん泣いた。
今でもAちゃんを思い出すと、ニコーっとした笑顔と泣いている顔のちょうど半分ずつを思い出す。
今まで誰にも、家族にすら見せられなかった涙を、お互いに思いっきり見せた相手だった。
中学校での知り合いが全くいない新しい環境に行きたいと、少し離れた場所にある高校へと自ら志望して進学していったAちゃん。
お互いに、いっぱい考えて、それぞれが最善と考える選択をとった。
それぞれが自分にとって一番良いと思える環境を一つ選んだ。
準備も十分でないまま目の前に迫り来る進路に対して、自分たちの人生をより良く生きようと、必死だった。
15歳という年齢は、当時は十分に大人だと思っていたけれど、今から振り返るとまだまだ全然子どもの年齢だ。
15歳で親元を離れる決心をして、真っ新な環境の高校に通うという覚悟を持って自分の未来を切り開いていったAちゃんの姿は、同い年と思えないぐらいとっても力強かった。
そんなAちゃんから10年以上も前に送られた歌を、私は大人になったいまでもよく思い出す。
大袈裟ではなく、Aちゃんと出会えたから、私は中学でも高校でも、そして大学でも頑張れた。
拝啓 Aちゃん、
中学校 卒業式の日
ついに、中学卒業式の日。
担任の先生から「最後の卒業式は出ないとダメ」と強く言われたため、クラスのみんなと一緒に卒業式に出席した。体育館の壇上で、担任の先生に名前を呼ばれ、校長先生から卒業証書を直々に受け取った。
私は、校長室で卒業証書を受け取った小学生からは、少し成長できたんだろうか。
その後の教室での卒業最後のホームルームにもそのまま行って、みんなと同じように下校した。
帰る道すがら、担任の先生からは「最後に強引な誘い方をして不安だったけれど、ちゃんと来てくれた」と号泣していた。
私は色んな人に多大なる心配と迷惑をかけて、やっと中学校を卒業することができた。
卒業式の日は朝からみぞれ混じりの冷たい雨が降っていて、体育館で座りっぱなしだった体は芯まで冷えた。
帰宅後は、久しぶりの登校に疲れ切ってコタツで寝てしまっていた。14時45分ごろに起きて、少ししてからテレビをつけるとリアルタイムで迫り来る津波の様子がニュースに映し出されていた。
私が住んでいた地域では被害はなかったけれど、連日流れるニュースと永遠に流れるACジャパンのCMを見ていた記憶はいつまでも残っている。
7年間の不登校に終止符
7年間。
不登校だった期間は、
長いようで短くて、でもやっぱり本当に長かった。
私にとっても、そして何より家族にとって、悩んでもがいてひたすら模索した日々だった。
私はこれから一生かけても恩返しできないと思う。
両親にも、そしてお世話になったたくさんの人々にも。
それぐらい、本当に心配と迷惑をかけ続けた。それは現在進行形かもしれない。
いや、生きている限りそうなのかもしれない。
でも、だからこそ、どうにかこうにか、少しでも恩返しできるようにこれからも生きていきたい。
次回の記事
7年間の不登校に関する記事はここで終わり、次回からは学校に通うことになる高校生編を更新していきます。
小中学校ともにずっと教室に行けていなかった私は、教室に通い始めた高校では友だち関係で悩んだり、勉強で落ちこぼれてしまったりと、また紆余曲折な日々を送ることになります。
そんな詳細を次回からも綴っていきますので、もし良ければ、記事更新への励みになりますので「スキ」をポチッとお願いします。
次回は #14 不登校7年間がついに高校生に 【7年間の不登校から大学院へ】を更新予定です。