発達障害と姿勢のはなし
”姿勢が悪い”ってどうよ
神経発達症の臨床で、発達性協調運動障害のことは時々話題になるけれども、ふつうの精神科医は「姿勢」のことはあまり話題にしないような気もする。どちらかというと教育分野の人たちの方が、子供の「姿勢」の問題にやかましいようだ。そのことへの反発もあるのか「姿勢を正しくする必要なんてあるの? 」という意見があるのも気持ちとしては納得できる。
おそらく多くの人が、子供時代に「姿勢が悪い」と叱られた覚えがあるだろう。まして、大人になってまで「あなたは姿勢が悪い」と言われたとしたら多少イヤな気持ちになっても仕方ない。そもそも精神科医は優しい人が多いから、患者の嫌がる話題を避けたくなることは理解できる。それに医者の側の都合としても、外科医などに比べたら精神科医は自分自身の姿勢が悪いひとが多いので、「他人様のことはとやかく言えない」と思ってしまう場合だってありそうではないか。それをいえば、何を隠そう筆者自身とても姿勢が悪い。どうやら多少とも姿勢を真っ直ぐにできるようになったのは中年になってからのことだ。
これは個人的な黒歴史のような何かだが、筆者は子供の頃はひょろひょろして猫背で、図書委員会や美術部などにありがちな、口だけは達者だが運動が全然ダメな子供たちの仲間であった。そういうオタク社会にいると、むしろ運動ができないことが自慢ぐらいの勢いだったので、姿勢など全く気にしないで生きてきた。たしかに、いくら姿勢が悪くても、読んだり書いたりするのに困らない程度であれば、それはそれで生きていける。それで姿勢の悪さは放置してきたわけだ。だけれども、たくさんの高機能神経発達症の大人を診察しているうちに、「これはどうでもよくないのではないか? 」と思うようになった。
黒歴史からの脱出
自分にとってのひとつの転機は、太極拳を習い始めたことだ。デイケアのメンバーたちの姿勢や動きの不自由さに驚いて、これはなんとかしなくてはと思い立ったものの、まず自分ができなくてはどうにもならないので、とりあえず自分にもできるかなと思って太極拳を始めてみたわけだ。「やわらぎ会」で下川和久先生にご指導いただいて、「人間の正常な身体機能とはこういうことか」という発見があった。体を動かすことが全くわからない自分に気がついたとも言える。もちろん、自分にはサッカーができない野球ができないということぐらいはもともとよく知っていたが、そもそも他者の動作を見て理解すること自体がぜんぜんできていないということが理解されたのだ。幸いなことに太極拳の姿勢や動作にはある種の語彙と文法があるので、忍耐強いご指導をいただいたこともあって、やっとある程度はその動作が理解できるようになってきたが10年もかかった。才能がある人なら1年以内にわかることだろうと思うのだが、これは大変なことである。毎日筋肉痛になるのを楽しめる覚悟がある人以外にはお勧めできない。
もうひとつは、臨床動作法を学習したことだ。身体性ということと暗示ということの関係に興味を持って、押しかけ的に臨床動作学会のセミナーで教えていただいたのだが、精神療法という意味でも、身体への気づきという意味でも多くを学ばせていただいた。成瀬悟策先生、鶴光代先生には数回お目にかかっただけなのだが、とても感謝しているので心の師と思って私淑している。特に心に残っているのは、成瀬先生の「動作のこころ」という言葉だ。私たちは、言葉で考えて頭でおもう何かを「自分」と考えがちだが、それではない「動作のこころ」と出会うことによって、その「自分」がかわっていくことが可能なのではないだろうか。本来、こころと体は一体のものだから、自分で意識していなくても姿勢には「動作のこころ」が現れている。だから、自分の姿勢に気がつくことは、この見失っていた「動作のこころ」に出会う糸口になるかもしれない。
姿勢は治療するべきなのか
発達障害と姿勢ではなくて、「わたしと姿勢」の話になってしまったが、元来のテーマに戻って臨床の立場から考えると、姿勢の問題を治療課題として取り上げるかどうかは、あたり前のようだが、他の治療課題とのバランスで考えるべきことだ。つまり、いま差し迫って取り組むべき課題が他にあるなら、姿勢の問題は後回しでかまわない。その点では、偏食の問題と似ている。”これに取り組むのは今ではなくてもよいかもしれない”ということをよく考えてみる必要がある。
ただし、だからといって姿勢の問題がどうでもよいということではない。極端な場合には、初診の際に患者の「姿勢」を見ただけで発達障害を疑うこともありうる(もちろん、姿勢で診断はつかないが、鑑別診断の候補として意識の中に自然と浮かび上がってくるという意味で)。だから、診断能力を高めるためにも、患者さんの姿勢や動き方には十分に注意を払う必要がある。
別の言い方をすれば、姿勢を見ることは神経学的所見を取ることの一部だ。むかし、ある高名な小児神経科医は「幼児がハイハイしているところを見れば診断ができる」とおっしゃっていて、達人ともなればそういうこともあるものかと感心したことがある。それはともかくとしても、立った姿勢、歩く姿勢、坐った姿勢をよく観察することから、たくさんの情報を得ることができる。「眼は心の窓」といって、多くの精神科医は目付きや視線の動きには注目しているかもしれない(統合失調症では追視する視線の動き(サッケード)に異常が見られることが以前から知られている)。神経内科医であれば、当然のことに姿勢はよく診るだろうけれども、神経内科でいう姿勢や運動の異常はかなり粗大なものなので、我々が問題にする必要があるのはのはもう少し繊細な違いだ。小児神経学では、神経学的ソフトサインとして検査されるような所見も含まれるが、それよりもさらに微妙なものをよく診る必要がある。
わかりやすいところから入ると、肩と首の位置がある。投げ首といえばわかりやすいだろうか、首が前に出ている人がよくある。その場合には顎もいっしょに前へ出ていることが多い。あるいは、首はまっすぐでも肩が前に出て胸がひっこんでいるひともある。小児科であれば、”フロッピー”ということになろうが、もちろん身体疾患のない成人の場合にはそこまで極端なことはあり得ない。そうはいっても筋緊張(トーヌス)が全般的に低くてぐったりした姿勢になるタイプにそういうことが多い。逆に、首回りや背中の筋緊張が強めで、首が肩にめり込んだように短くみえるひともいる。また、一見姿勢がよいようでいて、よくみれば肩が角張って腕が棒を吊り下げたようになっているひとがいる。坐ったときの体幹部の姿勢も重要になる。座骨から胸椎にかけて、胸腹が重力に従ってクタッとしているのか、つり上げたように伸びあがっているのか、しっかりと上半身の重みを受けて坐っているのか、この違いを見ただけで、そのひとの生活の様子も推測しやすくなる。とくに成人の診察する場合には、体の部位によって弛緩しすぎている部位と緊張しすぎている部位の両方があるようなケースも多くあるので、可能ならばいくつかの動作課題をしてもらえばもっとよくわかる。
こうしたことに気がつくようになるには、自分自身の体に対しても注意深くなる必要がある。これはほとんど冗談だが、精神神経科の臨床医であれば、舞踏か武術を一生のある時期だけでもいいから真剣に取り組んでみた方がいいのかもしれない。それが無理であれば、臨床動作法に入門してみるか、あるいは自分が動作法のセラピーを受けてみてもいいかもしれないと思う。そうすると、身体の内部感覚に気づいて調整するということの意味がおのずとわかってくるだろう。
精神科外来での姿勢へのアプローチ
ちなみに通常の外来診察において、自分の場合には患者さんの姿勢の異常に気がついても直接指摘することは少ない。それは、ほとんどの場合に他に取り組むべき課題があって、そこまですぐにはたどり着かないという見通しがある場合が多いからだ。しかし、比較的適応のよい高機能例ほど、ある程度まで急を要する課題の見通しがついたあとに、身体的なものへの取り組みが他の課題の解決の補助として必要になってくるケースが増えてくるような気がしている。
姿勢に介入していくことの治療的な意味は何だろうか。自分の姿勢に気がついて、おのずと姿勢が変わっていくことは、ある意味では、その人の生活意識の変化を映し出している。ばかばかしいと思うだろうが、背中を丸めて見た世界、胸を張って見た世界、自分の股から覗いた世界、旋回動作をしながら見た世界など、姿勢や動作に伴って世界の”見え方”や”感じ方”は変わってくる。そうすると、”感情”や”行動”もそれに随って変化していく。このことを治療に生かすことは可能であると思っている。そして、そのような変わっていく体験は、「自分は変えられる」という自己信念に結びついていく。言葉で言っても決して伝わらないことが、姿勢や動作の中で自然に生まれるということがある。
どんな場合に、姿勢の問題を治療課題としたらよいのだろうか。おそらく、姿勢の問題を単独で扱うのではなくて、たとえば他者とのコミュニケーションの文脈とか、自分の感情的な揺れへの対処の仕方とか、衝動性や注意集中の自己制御とか、なにかそういう他の課題との組み合わせで扱っていくのがよいのではないかと思う。たとえば、コミュニケーションの文脈であれば、他者から見た自己の”アピアランス”の問題から姿勢という課題に入ることもあるし、自己統制の問題から呼吸法などと併せて姿勢の問題を扱うこともできる。勉強に集中したいという訴えから姿勢の問題を取り上げる必要が出てくる場合もある。森田療法的な「あるがままは概念ではない」という話のつながりで姿勢に入っていくことだってできるかもしれない。そう考えると、姿勢へのアプローチはひろがりのある楽しい分野に見えてくるのではないだろうか。
姿勢の問題を、規範や道徳の問題にしてしまうと口うるさいことになるので、そうではないアプローチを考えることで、患者の役に立つ介入ができるかもしれないと思うので、つまらないことかもしれないが思うところを述べてみた。