自分に優しくって
好きな本でも、雑誌のコラムでも
SNSでもよく見かける言葉。
そしてそれは、絶対に必要だということも
自分でだってよくわかってる。
だけど
自分に優しくって、どういうこと?
わかってる。わかってるんだよ。
でも
自分に優しくすることが
他人に優しくするより遥かに難しいのは
何故なんだろう。
顔色、目の動き、雰囲気から
どう接するべきなのかがわかるほど
他人のことはよく見ているくせに
一番近いはずの自分のSOSには
全く気づいてやれないのは、何故なんだろう。
他人だったら
パワハラモラハラその他諸々で
とっくに訴えられているくらい
自分に厳しくなりすぎてしまうのは
責め立てて、追い詰めてしまうのは
どうしてなんだろう。
わたしは
他人に優しくするように
自分にも優しくしてあげてほしいと
SNSでずっと伝え続けてきた。
なぜなら、自分に優しく出来ない人って
他人にはすごく優しい人が多いから。
他人を許容する力は絶大なのに
どうにも自分のこととなると
他人に言うような言葉を、かけてやれなくなる。
それどころか、"他人を許容するために"
自分を押し殺して、違和感も気づかないふりをして
自分に優しくするためのエネルギーまでも
"無意識に"他の誰かに使ってしまうことも多いように思う。
人に優しく、の
"人"に、自分も含まれていること
自分も"人"であること
知ってるのに、みんな忘れてる。
限界もあれば暗い感情だってある。
情けない瞬間ばかりなときもある。
なんとなくうまくできない日が続くときだって
誰かや何かに腹が立つときだってある。
自分は、一番近い他人だよって
今までも伝えてきたし、今も変わらず伝えたい。
それは
ほんの少し前までのわたしももれなく
自分に優しく出来ないひとりだったから。
(もちろん100%変わったとは言えないけど)
自分に優しくすることは
とんでもなく難しい。
昔よりはだいぶマシにはなったけど
未だにひょこっと顔を出すのは
昔と全く変わらない言葉や思考で。
それが苦しくて
もう本気で嫌になっちゃって
今の自分には必要ないようにも思えて。
だから改めて考えた。
結局のところ
自分に優しくって、どうやったら出来るの?
どういう意味なの?って。
だけど、全然わからなかった。
どれだけ考えてもまだ、わからなかった。
でも、まあいいかと思った。
いつかたぶん、わかるようになるかもねと思った。
そしたらね
あれ、こういうことかもって感じたの。
全然わからない自分がだめって
決めつけて落ち込むんじゃなくて
わからない自分を受け入れた。
ただただ、そっか、とだけ思った。
良い悪いで判断しなくていい。
今はそうなんだねって、ただ知って、認めた。
時間かけても、わかるようになれたらいいなって
ただそれだけを思った。
現在地を知るみたいに
今自分がどのくらいわかるのか
わからないのかを知ることと
それで判断せずに
今はわかるための過程なんだって思うこと
それだけで、今までより、心は少し軽かった。
ここまで綴った言葉が
このテーマを書き始めたときのわたし。
これがなかなかまとまらず
書き進められないまま
書いても書いても、なんか違う、と思っていた。
これはわたしの"答え"じゃないなって。
まだこの先があるような
これで終わりじゃないような気がして
でもそのときには書けなくて
いずれ書き終えられたらいいなくらいで
数ヶ月メモに眠っていました。
5月、眠らせていた意味がわかった。
書いていたように、本当に過程だったんだから
あのときの自分が
"わからない"と思ったことを受け入れられたことが
はじまりだったんだと思えた。
たった数ヶ月。
でもわたしにとって、人生が変わる程大きな
内側の大変革があった。
(それについては1つ前の記事で。)
これ以降は、それをもって
"今"のわたしが至った答えです。
わたしにとっての自分に優しく、のリストは
詳しく説明するとかなり長くなるので
最後のひとつだけを。
(その他は次の記事で、、、)
伝わるかはわからないけど
わたしは今までの人生の中で
人を許すか、自分を許すかの選択を
迫られることが多かった。
それを、自分でも気づいていなかった。
そしてもうひとつ
気づかず無意識のうちにしていたことは
わたしは常に、なんの躊躇もなく
瞬時に人を許してきたということ。
自分が傷ついていても、嫌だと感じても
自分を許す選択肢が
子供の頃からわたしにはなかった。
どこかで折り合いがつくよう考えて
許せない理由は見ないふりして
誰かを許す材料を、理由をかき集めては
限界がくるまで、許し続けていた。
ほんの数ミリ、自分を殺しながら。
でもその数ミリが
積もりに積もって限界がくるころには
もうなんの気力も残っていない。
(前に書いた、時限爆弾のように)
人を許すか、自分を許すかは
わたしの中では
人を責めるか、自分を責めるかで
自分を責めることを無意識に選び続けていたわたしには
人を責めることが、許さないということが
とてつもなく重く、難しかった。
もちろん、怒らないって意味じゃないよ。
傷つけられても、怒りが湧いても
最終的に自分が悪いように思って
自分を責めて、自分を憎んで
増えていく十字架の重みに耐えるしか
術を知らなかったわたしにとっては
癖のように、痛みを飲み込んで
数ミリ自分を殺すことで
誰かや何かを許してしまった方が、遥かに楽だった。
だからこそ
それに気づいた今のわたしにとって
"自分に優しく"という中で大きなことは
自分を少しずつ殺してまで
人を許さなくていいと、自分を許すこと。
ここまでを踏まえて、元も子もないことを言うと
自分に優しくの意味とかやり方って
本当に人それぞれ。
許すことは自分のためって概念もよくわかるし
実際そうだと思う。
でもわたしには当てはまらないことが多かった。
わたしみたいに、許さなくていいと思うことが
自分への優しさになる人もいる。
スキンケアと同じで
みんな同じ肌質なわけじゃないから
自分に必要な成分が何なのかを知って
自分の肌に合ったものを
見つけることが大事なんだよね。
試行錯誤しながら。
だからとにかく、自分の声を聞いてほしい。
これはどのタイプの人も共通することだと思う。
なにが好き?
なにが嫌い?
今なにを思ってる?
やりたいことは?
やりたくないことは?
なんでもいい。
今の、過去からずっと閉じ込めていた自分の声を
聞いてあげてほしい。
そして
自分を数ミリ殺してまで
誰かを、何かを許すことは
優しさじゃなくて恐怖心だったりするから
本当は薄々気づいているそこも
わかるようになれば、やめていければ
自分とも他人とも
なんとなくうまくやっていけるのかもしれないな。
やることリストも大事だけど
やらないことリストを持つことも
自分にとってはすごく大事。
まずは自分の癖と
何で疲れるか、何でしんどくなるかを考えて
自分にとっての優しさになるテーマを
探り当てることが
"自分に優しく"の一歩目なんじゃないかと思う。
そもそも、"自分に優しく"なんて
そんなことわかってるって顔で生きてる人は
結局のところ
自分にも他人にも優しくないことが多い。
"自分に優しくってなんだろう"
"どうしたら出来るんだろう"って
自分に優しくない自分を
自分に優しくする意味がわかっていないことをわかって
わかりたいと、この長い文を
ここまで読んでくれているあなたは
きっと、すごく優しい人なんだと思う。
自分を甘やかすことは
自分に優しくないことかもしれないな。
これは他人にたいしても同じだよね。
わかりたい。
自分のこと、もっとちゃんと知っていたい。
誰かに話すような、見せるような"文章"じゃなくて
もっとフラットに、知りたいと思ったから
ジャーナリングをはじめた。
わたしとの会話。
ノートに書き出す。
支離滅裂でも、不恰好でもいい。
自分を深く知ること。
きっとそこからだよね。
他人に対してもきっとそう。
本当に優しくしたいと思ったら
知ってなくちゃ出来ない。
自分との距離感、他人だったらどう言う?って
自分を責める前に一回止まって考えてみる。
まだまだ初心者だけど
誰の機嫌より、自分の機嫌
自分が拗ねたら大惨事。
他人のご機嫌とってる場合じゃない。
暗い感情も、だめな部分も
消さなくていい。
ずっと持ってたっていい。
かっこよくなくていい。
かわいくなくていい。
綺麗じゃなくていい。
その全てが混ざって、深い色が出来て
それを見たとき、美しいと
いつかそう思えたらいい。
痛みも怒りも憎しみも
弱さも悲しみも不甲斐なさも
だめなものじゃないんだ。
それどころか、自分の豊かさを知るために
必要なものなんだよね。
きっと。
自分に優しくって
聞くより全然簡単なことじゃない。
簡単なことじゃないよね。
すごくよくわかる。
簡単なことじゃない。
でも、出来ないわけじゃない。
簡単ではないけれど
きっとすごくシンプルなはず。
そしてそれが少しずつでも出来るようになったら
この先ずっと楽だから。
難しくなってしまったのには
たくさんの理由と傷があって。
それさえも、他人のせいには出来なくて。
あなたを傷つけた"誰か"が
いつのまにか、自分に変わってしまっていた。
重かったよね。
痛かったよね。
それでも歩いてきたんだよね。
いったいなにを抱えてきたの。
それはまだ必要なものなの?
誰に許されたいの。
自分に優しくって
自分を知り、自分を許すこと。
自分の声を、ただ聞いてみる。
親友みたいに、いつも隣に、そっと座ってみる。
よく知ってるのに
はじめましてみたいだね。
わたしはわたしに、一番優しい人でありたい。